| 世界史 | ||||||||||||||||||||||||
| [要点-ヨーロッパ] | ||||||||||||||||||||||||
①中世のヨーロッパ諸国においては、各国のキリスト教会の上に立つローマ教皇が各国の王をしのぐ力を持っていた。 ②11世紀の中ごろ、西アジアにイスラム教徒であるトルコ人の強国が生まれた。 ローマ教皇は聖地エルサレムへのキリスト教徒の巡礼が、このトルコ人によって妨げられていると主張し、 国王や領主にエルサレムの奪回をよびかけた。 こうして、200年にわたって7回の遠征軍が送られた。これを十字軍という。 しかし、イスラム教徒の強い反撃にあい、十字軍は失敗に終わった。 十字軍の結果、教皇や領主の力が衰え、国王の力が増大した。 また、西アジアとの貿易が盛んになりイタリアの都市が栄えた。 ③十字軍は、ヨーロッパ社会にイスラム世界が保存していたギリシャ・ローマなどの文化を見直させるきっかけとなり、 イタリアの都市を中心に、新たな文化面での動きをひきおこした。こうした動きをルネサンスという。 美術ではレオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」、ミケランジェロの「ダビデ」が有名である。 |
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| ヨーロッパの成立 | ||||||||||||||||||||||||
【西ローマ帝国】395年に東西に分裂したローマ帝国のうち、 ローマに都をおいた西方の帝国。476年に滅亡した。 【東ローマ帝国】395年に東西に分裂したローマ帝国の東方のうち、 ギリシャ・小アジア・シリア・エジプトを支配した帝国。 【ゲルマン人】インド・ヨーロッパ語系の民族。 北ヨーロッパにいたが4世紀に民族で南西ヨーロッパに大移動した。 【ローマ教皇】ローマ・カトリック教会の最高位にある聖職者。 ![]() ①375年ゲルマン人が大移動を始め、ローマ帝国に侵入しました。 ②ローマ帝国は、395年に東西に分裂し西ローマ帝国は476年に滅亡しました。 ③ゲルマン人はフランク王国などの国を作りましたが、 その後、王国はフランス・ドイツ・イタリアのもとになる3つの国に分裂しました。 ④これらの国では、国王の保護を受けてキリスト教が各地に広まりました。 ⑤各国のキリスト教会の上に立つローマ教皇は各国の王以上の力を持っていました。 |
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| 十字軍 | ||||||||||||||||||||||||
| 【ローマ教皇】ローマ・カトリック教会の最高位にある聖職者。 【イスラム帝国】8世紀から13世紀まで続いた、イスラム教徒が西アジアを中心に建設した国。 【十字軍】キリスト教の聖地エルサレムなどをイスラム教徒から奪いかえすために ローマ教皇のよびかけによって派遣された軍隊。 ![]() ![]() ①11世紀の中ごろ、西アジアにイスラム教徒であるトルコ人の強国ができました。 ②ローマ教皇は、聖地エルサレムへのキリスト教徒の巡礼が、 このトルコ人によってさまたげられていると主張し、 国王や領主にエルサレムの奪回を呼びかけました。 ③こうして、200年にわたって7回の遠征軍が送られた。これを十字軍といいます。 ④しかし、イスラム教徒の強い反撃にあい、十字軍は失敗に終わりました。 十字軍の結果、教皇や領主の力が衰え、国王の力が増大しました。 また、西アジアとの貿易が盛んになりイタリアの都市が栄えました。 |
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| ルネサンス | ||||||||||||||||||||||||
| 【ルネサンス(文芸復興)】ヨーロッパで14~16世紀ごろにかけて広がった ギリシャやローマの古典文化を学びなおそうという動き。 ![]() ![]() ①十字軍はヨーロッパ社会にイスラム世界が保存していたギリシャ・ローマなどの文化を 見直させるきっかけとなりました。 ②西アジアとの貿易でさかえたイタリアの都市を中心に14世紀ごろから、 イスラム文化やギリシャ・ローマ文化への関心が高まり、 キリスト教のしきたりにとらわれない、自由で生き生きした文化が生まれました。 この動きをルネサンス(文芸復興)といいます。 ③イタリアではダンテが「神曲」を書き、ルネサンスのさきがけとなりました。 美術ではレオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」、ミケランジェロの「ダビデ像」が有名です。 ④ガリレオ・ガリレイはコペルニクスが唱えた地動説を証明しました。 ⑤また、イギリスのシェークスピアは「ハムレット」などの劇を書きました。 |
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| [要点-地理上の発見] | ||||||||||||||||||||||||
①スペインとポルトガルは、香辛料を求めて直接アジアへ行く航路を求めました。 ②スペインの援助を受けたコロンブスは大西洋を西へ向かい、 1492年、アメリカ大陸を発見しました。 ③1498年、バスコ・ダ・ガマはアフリカ南端をまわってインドに至る航路を発見しました。 ④さらに1519年マゼランの一行は世界一周に成功しました。 |
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| 地理上の発見 | ||||||||||||||||||||||||
| 【コロンブス】1451~1506 イタリア出身の航海者。 【パスコ・ダ・ガマ】1469?~1524 ポルトガル出身の航海者。 【マゼラン】1480?~1521 ポルトガル人の航海者。 【香辛料】植物の果実・花・葉・根などを乾燥して得られる調味料。スパイスとも呼ぶ。 ![]() ①インドや東南アジア原産の香辛料は、食肉中心のヨーロッパ人にとって、 調味料・防腐剤として重要でした。 ②しかし、香辛料は非常に高価であり(こしょう100gの値段は銀100g)、 香辛料を使用することは、王侯・貴族にとっては地位の象徴でもあったほどでした。 ③当時、香辛料はインド商人 → イスラム商人 → イタリア商人と陸路で運ばれていましたが、 独占状態であったので、最終的には原価(輸送費を含む)の4~6倍の値段になり、 イスラム商人やイタリア商人は大きな利益を得ていました。 ④この利益に目をつけた人々は、ポルトガルやスペインの援助を受けて、 直接アジアに行く海路を求めて探検に乗り出しました。 ⑤ルネサンスで天文学や地理学も発達していましたが、 スペインの援助を受けたコロンブスは、地球が丸いという説を信じて西へ行けばインドにたどり着けると考え、 西に向かって航海を行い、1492年に西インド諸島にたどりつきました。 ⑥スペインはコロンブスの発見した新大陸に進出し、 アステカ帝国、インカ帝国などの文明を滅ぼしました。 ⑦1498年バスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を回って、インドに至る航路を開拓しました。 ⑧また、ヨーロッパで宗教改革がおこっていた時代、 1519年にマゼランの一行は西回りで世界一周に成功しました。 |
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| [要点-宗教改革] | ||||||||||||||||||||||||
①16世紀のヨーロッパでドイツのルターは免罪符販売などの教会の腐敗を批判し、 宗教改革を始めました。 改革派のキリスト教を新教、その信徒をプロテスタントといいます。 ②これに対し、カトリック教会側でも反省がおこり、 フランシスコ・ザビエルはイエズス会を組織して、カトリックを海外に広めました。 |
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| 宗教改革 | ||||||||||||||||||||||||
| 【宗教改革】16世紀初めにヨーロッパでおこった、キリスト教会の腐敗をただそうとする運動。 【免罪符】カトリック教会が、これを買えば罪が許されるとして売り出した証明書。 【ルター】1183~1546ドイツで宗教改革を始めた人物。 【イエズス会】1534年につくられたカトリックの修道会。 【フランシスコ・ザビエル】1506~52 スペイン出身のイエズス会教師。 ![]() (1)16世紀初めにヨーロッパで起こった宗教改革: ①カトリック教会に対する大規模な宗教的・政治的改革運動であり、 特にマルティン・ルターによる働きかけが重要な役割を果たしました。 この改革は、教会の腐敗や贖宥状(免罪符)の販売に対する反発から始まりました。 ②1517年、ドイツのヴィッテンベルクで、マルティン・ルターが「95か条の論題」を掲示し、 カトリック教会の教義や慣行に対する批判を公にしました。 彼は、信仰によってのみ救われるとする「信仰義認」の立場を強調し、聖書の権威を強調しました。 この動きは、ヨーロッパ各地で多くの人々に支持され、 プロテスタントと呼ばれる新たなキリスト教の流れを生み出しました。 ③宗教改革はヨーロッパ全体に広がり、 スイスではウルリッヒ・ツヴィングリやジャン・カルヴァンが改革を推進しました。 カルヴァンの教えは特に影響力があり、ジュネーブを基点として広がりました。 (2)宗教改革の結果: ①ヨーロッパは宗教的に分裂し、 それまでのキリスト教世界はカトリック教会とプロテスタント諸派に分かれました。 ②この分裂は政治的な影響も及ぼし、 ヨーロッパ各国で宗教をめぐる紛争や戦争が繰り広げられました(例: 三十年戦争)。 (3)評価: この宗教改革は、その後のヨーロッパの宗教観、政治、社会に大きな影響を与え続けました。 カトリック教会も対抗宗教改革によって内的改革を進めることになります。 |
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| 絶対王政 | ||||||||||||||||||||||||
| 【絶対王政】国王が絶対的な権力をにぎり、国王の思いのままにものごとを決定できる政治。 【エリザベス1世】1533~1603 イギリスの絶対王政を確立させた女王。 ![]() ①ヨーロッパでは、16世紀後半~17世紀に国王中心の絶対王政という政治のしくみが作られました。 ②イギリスではエリザベス1世が海軍力でスペインを圧倒し、 1600年には東インド会社を作り、アジア貿易に乗り出しました。 ③フランスでは、ルイ14世が強力な力を持ち外国にたびたび戦争をしかけ、 アメリカにも植民地を持ちました。 また、パリの郊外にベルサイユ宮殿を建てました。 ④17世紀にスペインから独立したオランダは、首都のアムステルダムが貿易港として栄え、 鎖国下の日本とも、長崎の出島で貿易を続けました。 |
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| [要点-市民革命・産業革命] | ||||||||||||||||||||||||
①17世紀半ばのイギリスで、クロムウェルを指導者とするピューリタン革命がおこり、 議会が王をとらえて処刑し共和制をしいた。 さらに、1688年、名誉革命がおこり、 権利章典を定めて国王に国民の権利と自由を尊重することを約束させた。 ②イギリスの植民地だったアメリカは、独立を求めて独立戦争をおこし、 1776年に独立宣言を発表した。 フランスでは、1789年にフランス革命がおこり、国民議会は人権宣言を発表した。 その後、ナポレオンが出て皇帝の地位につき、ヨーロッパ全土をしたがえたが、 ロシア遠征に敗れて失脚した。 ③イギリスでは、18世紀後半、ワットによる蒸気機関の改良などにより産業革命がおこり、 「世界の工場」と呼ばれた。 こうして資本主義が成立したが、労働者は労働組合をつくって資本家に対抗し、 社会主義の考えも生まれた。 ④アメリカでは、北部出身のリンカンが大統領になると、南部は独立を宣言し、 1861年に南北戦争が起こった。 戦争中、リンカンは奴隷解放宣言を出した。 ドイツでは、プロシアの宰相ビスマルクが中心となって、1871年ドイツ帝国を成立させた。 |
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| 清教徒革命・名誉革命 | ||||||||||||||||||||||||
| 【清教徒革命】イギリスで17世紀半ばにおこった清教徒(ピューリタン)を中心とした市民革命。 【名誉革命】イギリスで1688年におこった市民革命。 ![]() ①16世紀のイギリスでは軍隊を背景に国王の権力が強くなりました。 国王による中央集権的な政治を絶対王政といいます。 ②とくに権力が強かったのは女王エリザベス一世の時代でした。 イギリスでは1642年に清教徒革命が起こり、1649年に国王が処刑され共和制になりました。 ③しかし、政権をにぎったクロムウェルの独裁政治は人々の不満を招き、 その死後、王政が復活しました。 ④1688年に名誉革命が起こり、国王を追放した議会は新しい国王を迎えて、 国民の権利と自由を守ることを約束させました。 |
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| アメリカ独立戦争 | ||||||||||||||||||||||||
| 【アメリカ独立戦争】1775年、イギリスの植民地だったアメリカの東部13州の人々が、 独立を求めておこした戦い。 ![]() ①イギリスの植民地であったアメリカは、1775年に独立戦争を起こしました。 ②当時イギリスと対立していたフランスはアメリカを援助しました。 1776年には、独立宣言を出し、総司令官のワシントンを初代の大統領に選びましだ。 ③独立戦争に勝ったアメリカは、人民主権、連邦制、三権分立を柱とする合衆国憲法を制定しました。 |
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| フランス革命 | ||||||||||||||||||||||||
| 【フランス革命】フランスで1789年におこった革命。 ![]() (1)フランス革命: 1789年から1799年にかけてフランスで起こった大規模な政治的および社会的変革です。 この革命は、絶対王政を終わらせ、フランス共和国の成立をもたらしました。 ①背景: 経済的困難: フランスは長期間の戦争と高額な宮廷費用によって経済が悪化していました。 特にアメリカ独立戦争への支援は財政を圧迫しました。 社会的不平等: フランスの社会は聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、平民(第三身分)によって構成されており、 不平等な税制度が存在していました。 特に第三身分は多くの負担を強いられていました。 啓蒙思想の普及: 自由、平等、兄弟愛を唱える啓蒙思想が広がり、 人々は絶対王政や封建制度に疑問を抱くようになりました。 ②革命の進行: 三部会の招集と国民議会の成立(1789年5月-6月): 財政危機を解決するためルイ16世は三部会を招集しましたが、 議決方法を巡る対立から第三身分が国民議会を結成しました。 バスティーユ襲撃(1789年7月14日): パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃した事件は、革命の象徴として有名です。 この出来事が全国的な革命運動に火をつけました。 立憲君主制の試み: 人権宣言が発布され、立憲君主制を目指して新憲法が制定されました。 しかし、王族の国外逃亡未遂事件(ヴァレンヌ事件)により王への信頼は失われました。 共和制と恐怖政治(1792年-1794年): 国王は処刑され、フランスは共和制を宣言しました。 1793年から1794年にかけて、ジャコバン派が権力を握り、 多くの反革命派や王党派を処刑する恐怖政治を推進しました。 ナポレオンの台頭(1799年): 混乱を収束させる手段として、ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、実権を掌握しました。 これにより革命は終結し、ナポレオン時代へと移行します。 (2)結果と影響: ①フランス革命は絶対王政終焉のきっかけとなり、自由と平等の理念が広がり、 ヨーロッパ各国の市民革命に影響を与えました。 ②革命は国家の近代化を推し進め、多くの社会制度や法律が改革されました。 ③フランス革命は、それまでの社会秩序を大きく変え、 現代の民主主義や人権思想の基盤を築くにあたっても非常に重要な出来事でした。 |
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| 啓蒙思想 | ||||||||||||||||||||||||
| 【啓蒙思想】18世紀、ヨーロッパに広まった合理主義の考え方。 教会などの伝統的権威を批判・否定し、人間の理性によって、社会の進歩を図ろうとした。 ![]() ①ロックは17世紀のイギリスの思想家で、 人間は生まれながら、自由・平等であると説き、社会契約説をとなえました。 ②18世紀のフランスでは、国王の政治を批判し、 民主主義を主張する啓蒙思想家があらわれました。 ③モンテスキューは「法の精神」で三権分立を唱え、 ルソーは「社会契約論」で人民が法律をつくるべきと主張しました。 |
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| 産業革命 | ||||||||||||||||||||||||
| 【産業革命】18世紀後半にイギリスで始まった、技術革新にともなう産業・社会のしくみの大きな変革。 【蒸気機関】高温・高圧の水蒸気がもつ熱エネルギーを、動力にかえる機関。 【世界の工場】19世紀ごろのイギリスに対するよび名。 ![]() ①18世紀のイギリスでは、インドの良質の綿布に対抗するために紡績機や織機が発明され、 綿織物業から産業革命が始まりました。 ②また、ワットによって蒸気機関が改良され、動力に用いられるようになると、 工場制手工業にかわり工場制機械工業が興ってきました。 ③19世紀にイギリスは、その繁栄ぶりから「世界の工場」と呼ばれました。 |
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| 資本主義の社会 | ||||||||||||||||||||||||
| 【資本主義】利益の追求を目的として、 多くの資本をもつ資本家が労働者をやとって商品を生産する経済・社会のしくみ。 【社会主義】機械や土地などを社会の共有にし、階級差のない平等な社会をめざす思想。 【マルクス】1818~83 ドイツの哲学者・経済学者。資本主義を分析・批判し、社会主義を提唱した。 ![]() ①18世紀のイギリスでは、産業革命によって資本を持つ者が労働者を雇って 利潤第一に経営する資本主義の仕組みが広まりました。 ②資本主義の発展によって、物が豊かになり生活も便利になって、都市も発達しました。 ③しかし、資本主義社会では、弱い立場の労働者が低賃金で長時間の労働をしいられました。 そして、貧富の差や労働災害、公衆衛生をめぐる社会問題がおこりました。 ④労働者は労働条件の改善をもとめて労働組合を結成しました。 また、資本主義を批判して理想の共同体思想をめざすマルクスなどの社会主義の考え方が生まれました。 |
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| 19世紀の欧米諸国 | ||||||||||||||||||||||||
| 【南北戦争】1861年にアメリカ合衆国でおこった内戦。 【リンカーン】1809~65 アメリカ合衆国大統領。 ![]() (1)アメリカの南北戦争: ①1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国で起こった内戦です。 この戦争は、主に南部の11州が合衆国から脱退し、 南部連合(または「連邦」)を形成したことにより始まりました。 南部の州では、奴隷労働を基盤とする経済が発展していましたが、 北部では工業化が進み、奴隷制度の拡大に反対する意見が強まっていました。 ②戦争の背景には、経済的・社会的な対立がありました。 南部は農業中心の経済であり、特に綿花の生産には多数の奴隷が必要でした。 一方、北部は工業化が進み、自由労働を求める声が高まっていました。 これにより、奴隷制度の維持をめぐる対立が激化しました。 ③1860年、奴隷制度に反対の立場をとる共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に選出されると、 南部の州は連邦からの脱退を決定し、独自の政府を樹立しました。 これにより、戦争が勃発しました。 (2)南北戦争の主要な要因: ①奴隷制度: 南部は奴隷制度を維持しようとしたが、北部はこれに反対した。 ②経済的な対立: 南部の農業経済と北部の工業経済の対立。 ③政治的な対立: 州の権利を優先する南部と連邦政府の権力を強めようとする北部の対立。 南北戦争は非常に激しい戦闘が行われ、多くの犠牲者を出しました。 1863年にはリンカーン大統領が奴隷解放宣言を発表し、 奴隷制度廃止に向けた大きな一歩を踏み出しました。 戦争は1865年に北部の勝利で終結しましたが、 その後も南部の復興(Reconstruction)や奴隷の解放に伴う社会問題が続きました。 (3)評価: 南北戦争はアメリカの歴史における重要な転換点であり、 奴隷制度の廃止と合衆国の統一を確立する上で決定的な役割を果たしました。 ![]() (4)クリミア戦争: クリミア戦争は、1853年から1856年にかけて、 主にロシア帝国とオスマン帝国(現在のトルコ)、 そしてこれにイギリスやフランス、サルデーニャ王国が加勢して戦われた戦争です。 この戦争は、黒海周辺地域における影響力をめぐる衝突が主な原因となっています。 ①背景: 領土と影響力の問題: ロシアは、オスマン帝国の衰退を背景に 黒海沿岸およびバルカン半島での影響力を拡大しようとしていました。 キリスト教徒の保護: ロシアはオスマン帝国領内の正教徒の保護を理由に影響力を拡大しようとしましたが、 これに反対するフランスやイギリスとの関係が悪化しました。 国際的な緊張: ヨーロッパ諸国は、ロシアの南下政策が自国の利益を脅かすものと考えていました。 ②戦争の経過: 1853年: ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告し、戦争が始まりました。 最初は黒海での戦闘が中心でした。 1854年: イギリス、フランスがオスマン帝国側として参戦し、 クリミア半島での戦闘が本格化しました。 セヴァストポリ包囲戦: クリミア戦争における最も重要な戦いの一つで、長期にわたる包囲戦が行われました。 1855年にセヴァストポリが陥落しました。 ③戦争の影響と結果: パリ条約(1856年): 戦争は1856年のパリ条約で終結しました。 この条約により、ロシアは黒海における軍事力を制限されました。 国際関係の変化: 戦争の結果、ヨーロッパにおける国際関係は大きく変化し、 特にオスマン帝国の衰退が加速しました。 医療の進歩: ナイチンゲールの看護活動は、戦場における衛生状態の改善や看護の重要性を 広めるきっかけとなりました。 |
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| [要点-ヨーロッパのアジア侵略] | ||||||||||||||||||||||||
①イギリスは清から茶や絹などを輸入していたが、支払いの銀が不足したために、 インドでつくらせたアヘンを清に輸出しました。 清がアヘンの輸入を禁止したため、イギリスは1840年アヘン戦争をおこし、 清を降伏させ南京条約を結びました。 この条約でイギリスは香港をゆずり受けました。 さらに翌年には、イギリスに領事裁判権を認め、清に関税自主権がない不平等条約を結びました。 清では開国後、経済が混乱し、洪秀全を指導者とする太平天国の乱がおこりました。 ②18世紀末~19世紀にかけて、イギリスはインドの支配地域を広げました。 1857年、インド大反乱がおこったが鎮圧されました。 その結果、インド皇帝は退位させられ、インドはイギリスの領土となりました。 |
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| アヘン戦争 | ||||||||||||||||||||||||
| 【三角貿易】18世紀未からイギリス、インド、清の三国間で行われた貿易。 【アヘン戦争】1840年、イギリスと清との間でおこった戦争。 【南京条約】アヘン戦争の結果、1842年にイギリスと清との間で結ばれた条約。 【太平天国の乱】清で、1851年におこった大規模な反乱。 ![]() (1)アヘン戦争: 19世紀半ばに清(現在の中国)とイギリスの間で起こった戦争で、 第一次アヘン戦争(1839年–1842年)と 第二次アヘン戦争(1856年–1860年)の二つから成ります。 アヘン戦争は清朝と西洋列強との関係に大きな影響を与え、 アジアにおける西洋の影響力を拡大する契機となりました。 (2)第一次アヘン戦争(1839年–1842年): ①背景: 18世紀末、清は茶、絹、陶磁器などを主要な輸出品として西洋諸国に輸出していました。 しかし、清は外国からの輸入品に対して限られた興味しか示さなかったため、 貿易の不均衡が生じました。 イギリスはこの貿易不均衡を是正するために、 インドで生産されたアヘンを清に密輸することで銀を得ようとしました。 ②戦争の原因: 清政府はアヘンの蔓延が社会問題を引き起こしていることを憂慮し、 アヘンの密輸の取り締まりを強化しました。 1839年、清の官僚林則徐が広州で大量のアヘンを没収・焼却したことが 戦争の直接の引き金となりました。 ③戦争の経過と結果: イギリスはこれに反発し、軍事力を使って清と戦争を開始しました。 戦争の結果、1842年に南京条約が結ばれ、清は香港島をイギリスに割譲し、 多くの港を開港、さらに賠償金を支払うこととなりました。 この条約は不平等条約とされ、清の主権を大きく侵害しました。 (3)第二次アヘン戦争(1856年–1860年): ①背景: 南京条約後もイギリスと清の間で貿易や外交に関する摩擦が続いていました。 アロー号事件(イギリス船籍の船が清に拿捕された事件)をきっかけに、 イギリスとフランスが連合して清に対して再び戦争を起こしました。 ②戦争の経過と結果: 第二次アヘン戦争では、1860年に北京が陥落し、清は北京条約を結ばざるを得なくなりました。 これにより、さらに多くの港の開港、キリスト教布教の自由、九龍の割譲など、 より屈辱的な条件を受け入れることとなりました。 (4)評価: ①アヘン戦争は中国の近代史の重要な転換点であり、 清朝が西洋列強の圧力の下で主権を侵害されていった過程を象徴しています。 ②クリミア戦争は、19世紀のヨーロッパにおける国家間の力関係や国際的な影響力が どのように展開されたかを示す重要な出来事であり、近代戦争の様相をいち早く現した戦争の一つです。 |
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| インドの大反乱 | ||||||||||||||||||||||||
| 【インドの大反乱】イギリスの支配に対し、1857年にインドでおこった反乱。 【ムガール帝国】インド史上、最大にして最後のイスラム帝国。 ![]() ①イギリスの東インド会社に雇われていたセポイというインド兵が反乱をおこし、 農民なども加わって反乱は全国に広がりました。 これをインドの大反乱(セポイの乱)といいます。 ②これを鎮圧したイギリスはムガール帝国を滅ぼし、インドをイギリスの領土としました。 |
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