社会2年 日本の歴史(明治時代)

 明治
 [要点-明治維新]

【明治維新】明治時代初期に進められた、日本を近代国家にするための一連の政治改革。
【明治天皇】1852~1912 明治時代の天皇。1867年に天皇に即位。

①天皇が神に誓うという形で五箇条の御誓文を出した。
1869年、版籍奉還によって各大名の領地と人民を政府にかえさせ、さらに1871年、廃藩置県を断行した。
また四民平等をとなえて江戸時代の身分制を改めた。
このような新政府の一連の改革を明治維新という。

②新政府は富国強兵を唱え、官営模範工場を作るなど殖産興業を推進した。
さらに、徴兵令を出して20歳以上の男子に兵役の義務を課した。
財政の基礎を固めるために地租改正を行い、地価を決めて土地の所有者に地券を発行し、
地価の3%を現金で納めさせることにした。
また、1872年、学制を定めてすべての国民に小学校教育を受けさせることにした。

③1871年に清と日清修好条規を結び、1875年にロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。
朝鮮との関係については、江華島事件がおこり、日本は日朝修好条規を朝鮮におしつけた。
北海道の開拓を進めるために札幌に開拓使をおき、士族などを屯田兵として配置した。

④明治初期、西洋風の生活様式が取り入れられたが、これを文明開化という。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」を著し、自主独立の精神と学問の必要を説いた。
 五箇条の御誓文

【五箇条の御誓文】1868年に明治政府が示した、政治の基本方針。
五箇条の御誓文は、1868年に明治天皇によって発布された、
日本の近代国家建設の基本方針を示した文書です。
この御誓文は、明治維新の基本理念として、新しい時代の方向性を国内外に示しました。
   

(1)五箇条の各条項:
①広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ:
意義: 国政は広く会議によって行い、重要な事項は公論に基づいて決定すべきとの考え。
この条項は、民主主義的な手法を採用する方針を示しています。

②上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ:
意義: 天皇から庶民に至るまで、すべての人々が心を一つにして
国を治めるための政策を積極的に進めるべきということを指しています。
国民の統合と一体感を促す内容です。

③官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦ムコト無カラシムベシ:
意義: 官僚から一般庶民に至るまで、それぞれが自らの志を追求し、
思い通りの活動ができるようにすることを意味します。
個人の自由や活力を重視しています。

④旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ:
意義: これまでの悪習を改め、理に適った方法に基づくようにする、という考えです。
封建的な慣習を打破し、平等で合理的な社会を目指す方針を示しています。

⑤智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ:
意義: 世界から知識を取り入れ、国家を強めることを促します。
国際的な交流や学びを通じて日本の発展を図る姿勢を示しています。

(2)影響:
五箇条の御誓文は、封建制から近代国家への移行を目指す明治政府の基本方針を示すものとして、
日本の近代化や民主化の礎となりました。
また、この御誓文の理念は、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。

 版籍奉還・廃藩置県

【版籍奉還】1869年、明治政府が藩主の所有する土地と人民を朝廷に返させた政策。
【廃藩置県】1871年、明治政府が全国の藩を廃止し、かわりに府・県をおいた政策。

明治時代の版籍奉還と廃藩置県は、日本の中央集権化を進めるための重要な施策で、
近代国家としての基盤を築く過程において大きな役割を果たしました。

  

(1)版籍奉還:
①背景と内容:
版籍奉還は、1869年に行われた改革で、各藩の領地(版)と
その領地の人民(籍)を天皇に返上させるというものでした。
藩主は、領地と人民を政府に返し、代わりに政府から知藩事(ちばんじ)という役職に任命され、
引き続きその地域を治めることになりました。
ただし、知藩事は政府の職員とされ、中央政府の支配が強まりました。

②意義:
形式的には藩主が自主的に領地を返上した形になりますが、
実際には新政府が中央集権化を進めるための一環として行われました。
藩という封建的な単位を解消し、中央集権化に向けた第一歩となりました。

(2)廃藩置県:
①背景と内容:
廃藩置県は、1871年に行われた、すべての藩を廃止し、府県を設置した改革です。
これにより、知藩事は罷免され、中央政府が任命する府知事や県令(後の県知事)が
行政を行うことになりました。
全国が政府によって直接統治される体制が整えられ、
藩に変わって府と県が日本の行政区分となりました。

②意義:
廃藩置県によって、日本は名実ともに中央集権国家となりました。
これにより、藩による独自の政策や軍事力の保持がなくなり、
統一された国家の政策が全国で実行されるようになりました。

(3)評価:
①この改革は、近代国家建設のための重要なステップであり、
その後の日本の政治機構や公共制度の整備に大きく貢献することになりました。
②これらの改革によって、日本は封建制から脱却し、近代的な行政体制を整えることが可能になり、
強い中央政府の下で近代化を推進する基盤が築かれました。
 四民平等

【四民平等】明治政府が江戸時代の身分制度を廃止し、皇族以外はすベて平等であるとしたこと。
【解放令】1871年、明治政府が(えた・ひにん)などの身分を廃止するとした法令。

 

(1)四民平等:
①明治政府は封建的な身分制度を廃止し、法の下で平等な社会を目指しました。
江戸時代の日本では、人口を士農工商(武士、農民、職人、商人)の身分に分けていましたが、
明治維新後、この身分制度を撤廃しました。

②その結果、全ての日本国民は「平民」として法的に平等とされるようになり、
職業選択の自由や移動の自由が認められました。
ただし、社会的には依然として旧来の身分意識が残り、完全な平等には時間が必要でした。

(2)解放令:
①解放令は1871年に公布された太政官布告で、
これにより穢多(えた)・非人(ひにん)などの被差別身分もまた法的に平民とされ、
身分差別の撤廃が図られました。

②これにより、法的にはすべての国民が平等とされましたが、
現実には差別意識や慣習は根強く残り、被差別部落などの課題はその後も続くことになりました。

(3)成果:
これらの改革は、日本が近代国家としての体制を整える上で重要なステップでしたが、
実際の社会における差別の解消には長い年月とさらなる努力が必要となりました。

 維新の改革①:学制・徴兵令

【富国強兵】欧米の強国に対抗できる近代国家をつくるため、明治政府がかかげたスローガン。
【学制】1872年に公布された、学校教育制度の基本を定めた法令。
【徴兵制】1873年に公布された満20歳以上の男子に兵役を義務づけた法令。
【地租改正】1873年から行われた、土地に対する税の改正。

 

(1)学制:
①1872年(明治5年)に、明治政府は「学制」を発布しました。
これにより、日本全国に小学校を設置し、すべての国民に教育を受けさせる制度が始まりました。
学制は、教育を通じて国民を啓蒙し、国家の発展に寄与する人材を育成することを目的としました。
具体的には、初等教育を義務教育とし、全国どこでも学校に通える環境を整えることを目指しました。

②学制の施行により、小学校を拠点に教育の機会が全国に広がりましたが、
地域によっては家庭の事情や文化的背景から子どもの就学が難しい場合もありました。
それでも、学制の施行は日本の教育システムの基礎を築き、
その後の日本社会の近代化に大きく貢献しました。

(2)徴兵令:
①1873年(明治6年)に発布された徴兵令は、近代的な国民軍を編成するための制度です。
それまでの日本では、武士が中心となって軍事を担っていましたが、
近代国家建設のためには武士だけでなく、
全国民が軍事に参加可能な体制を整えることが必要とされました。

②徴兵令では、満20歳以上の男性が兵役に就く義務を負い、3年間の兵役が課せられました。
これにより、平等に国民全体から兵士を徴集することが制度化されました。
この制度は、国防の強化だけでなく、国民意識や国家への帰属意識の向上にも寄与しました。

(3)評価:
学制と徴兵令は、どちらも日本を近代国家として成長させる上での重要な制度であり、
特に教育と軍事において国家の基盤を固める役割を果たしました。
 維新の改革②:地租改正

【地租改正】1873年から行われた、土地に対する税の改正。
土地の所有者と価格(地価)を決めて地券を発行し、地価の3%の税(地租)を現金で納めることとした。

 

(1)背景:
江戸時代、日本の税制は主に年貢(作物の収穫量に基づく税)によって農民から徴収されていました。
しかし、この制度は不安定であり、土地の生産力に依存していたため、
安定した政府財政の構築には適していませんでした。

(2)地租改正の内容:
地租改正は1873年(明治6年)に始まり、土地に基づく新たな税制度を導入しました。

①税の基準を収穫高から地価に変更:
年貢は地租に置き換えられ、土地の評価額(地価)を基準に税が課せられるようになりました。
これにより、天候に左右されにくい安定した税収を確保することが可能になりました。

②地価の設定:
土地の持ち主は土地の評価を受け、地価が設定されました。
この地価に基づいて、地租の額が決まりました。

③現金での納税:
税の納め方も改善され、年貢の代わりに一定の地価に基づく地租が現金で納められることになりました。
これにより、物納から現金納付への大きな転換が図られました。

④税率の設定:
地租は地価の3%に設定されましたが、地租改正後の負担が重いとする農民の反対運動もあり、
後に2.5%に引き下げられました。

⑤結果と影響:
地租改正は、政府にとっては安定した収入源となり、
国家の近代化を進めるための財源を確保することができました。
しかし、一方で、新しい税の負担が重く、特に農村地域では反対運動が起こりました。
これにより、農民の生活が圧迫される結果となり、一部の農民が土地を手放す事態も発生しました。

(3)評価:
地租改正は、日本の税制を近代化する重要な改革であり、
その後の日本の経済発展につながる基盤の一つとなりました。
しかし、その実施には地域社会への影響や農民の反発といった課題も伴いました。
 殖産興業
 
【殖産興業】富国強兵をめざす明治政府がかかげた、近代産業を育成するためのスローガン。
【富岡製糸場】1872年に群馬県につくられた官営模範工場。
【郵便制度】殖産興業の一環として1871年に整備された、郵便に関する新制度。

 

①明治政府が近代産業を育てることを目指して進めた政策を殖産興業とよんでいる。

②政府は群馬県の富岡製糸場に代表される官営模範工場を作ったり博覧会を開いたりして、
技術の開発と普及をはかった。

③経済の発展に欠かせない交通・通信部門の整備も進められた。
1872年には新橋・横浜間に陸蒸気が走り、飛脚にかわる近代的な郵便制度が前島密によって整えられた。
 北海道の開拓

【開拓使】1869年、北海道を切り開いて開発するためにおかれた役所。
【屯田兵】明治時代、北海道の開拓と警備にあたった兵。
【クラーク】1826~86 アメリカの教育家。
北海道の開拓使の招きで、1876年に札幌農学校(今の北海道大学)の初代教頭として来日した。

 

①開拓使を設置して北海道の開拓を進めました。
農民を移住させ、士族を屯田兵として配置しました。

②また、アメリカ人クラークを招いて札幌農学校を開き農業技術の導入を図りました。
 文明開化

【文明開化】明治維新の後、衣食住など人々の生活様式が西洋風に大きく変化したこと。
【太陽暦】日本で、太陰暦にかわり1873年から採用されている暦。

 

①近代化をめざす政策により、欧米の文化がさかんに取り入れられ、
伝統的な生活が変化し始めたが、これを文明開化と呼びます。

②都市では洋風の建築が増え、道路には人力車や馬車が走り、ランプやガス灯が誕生しました。

③また、洋服やコート、帽子が流行し、牛肉を食べるなど、食生活の変化も始まりました。

④暦も1873年から太陽暦が採用されました。
 近代思想

【福沢諭吉】1834~1901 明治時代の思想家・教育者。
【中江兆民】1847~1901 明治時代の思想家。
岩倉使節団とともにフランスに留学し、帰国後、「東洋自由新開」において自由民権論を説きました。

 

①欧米の近代思想も次々に紹介され、人間の平等と民主主義がわかりやすい形で説かれました。

②ルソーらの民主主義思想を紹介したのは中江兆民です。
これらの思想は青年たちに大きな影響を与え、やがて自由民権運動へとつながっていきました。
 岩倉使節団

【岩倉使節団】1871~73年、岩倉具視を全権大使としてアメリカやヨーロッパに派遣された使節団。
【津田梅子】1864~1929明治・大正時代の女子教育家。

 

①外交問題では、幕府から引き継いだ不平等条約の改正が大きな課題でした。

②1871年、廃藩置県を断行した直後、岩倉具視を全権大使とする使節団を欧米に送りました。

③条約改正はできなかったが、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政府の主要メンバーの半数が、
約2年間、欧米の進んだ政治、産業、文化を直接に体験し、
国力の充実が必要であると痛感して帰国しました。

④使節団には数多くの留学生も同行したが、津田梅子など5人の女子留学生も含まれていました。
 征韓論・日朝修好条規

【日清修好条規】1871年、日本と清との間で結ばれた条約。
【征韓論】明治時代初めころ主張された、鎖国を続けていた朝鮮に対して、
武力にうったえてでも開国させようとする考え。
【江華島事件】1875年、朝鮮の江華島近くで無断で測量していた日本の軍艦が朝鮮から砲撃された事件。
【日朝修好条規】1876年、日本と朝鮮との間で結ばれた、朝鮮にとって不利な条約。

 

(1)征韓論:
①背景:
征韓論は、明治初期(1860年代から1870年代初頭)に
日本が朝鮮半島に対して軍事的な介入を行うべきだという主張を指します。
当時、日本は明治維新を経て急速な近代化を進めており、外交政策をめぐる議論が盛んでした。

②主要な人物:
征韓論を推進したのは主に、西郷隆盛や板垣退助など、
明治政府の中で影響力を持っていた武士出身の人物でした。
彼らは、日本の国力を示し、周辺諸国に影響力を拡大する一環として、
朝鮮への武力行使を主張しました。

③結末:
この政策に反対したのは、岩倉具視や大久保利通など、
より穏健な外交政策を支持する政府内部の改革派でした。
彼らは、国内の近代化を優先すべきと考え、結果として征韓論は退けられました。
これが西南戦争の一因とも言われ、
1860年代後半から1870年代初頭にかけての重大な政治的対立を招きました。



(2)日朝修好条規:
①背景:
日朝修好条規は、1876年に日本と朝鮮の間で締結された条約です。
「江華島事件」という軍事衝突をきっかけに、日本が朝鮮に対して開国を迫る形で結ばれました。

②内容:
この条約で、朝鮮は釜山、仁川、元山の三港を開港し、日本と自由な貿易を行うことが取り決められました。
条約では、日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮に治外法権を成立させるなど、
日本側に有利な不平等条約の側面がありました。

③影響:
日朝修好条規の締結により、朝鮮は国際的に孤立を深め、日本の影響力が増していくこととなりました。
これが後の日本による朝鮮半島の支配への布石となっていきます。

(3)評価:
これらの出来事は、明治時代の日本が近代国家としての体制を整える過程で、
外交政策や周辺諸国との関係構築において重要な役割を果たしました。
 樺太・千島交換条約

【樺太・千島交換条約】1875年、日本とロシアの国境を決めた条約。

 

①1875年(明治8年)、ロシアとの間で、日本がウルップ島以北の千島列島を領有するかわりに、
樺太をロシアに譲るという樺太・千島交換条約を締結しました。
 琉球処分

【琉球処分】1879年、明治政府が琉球藩と琉球王国を廃止し、沖縄県とした政策。

 

①江戸時代、琉球は薩摩藩の支配下におかれていたが、中国(清)にも朝貢しており、
形式上は日本と中国の両方に属する形でした。

②日本は、1872年に琉球藩をおいて政府直属としました。
しかし、宗主権を主張する清はこれに抗議しました。

③1871年に台湾で琉球漂流民の殺害事件が起こったが、日本は1874年に台湾に出兵しました。
日本は清に対して強硬な立場をとり、日本の出兵が正当なことであることを認めさせました。

④明治政府は、1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を設置しました。
これを琉球処分といいます。
 [要点-自由民権運動・国会の開設]

【征韓論】明治時代初めころ主張された、鎖国を続けていた朝鮮に対して、
武力にうったえてでも開国させようとする考え。
【板垣退助】1837~1919 土佐藩(高知県)の出身で、明治時代・大正時代の政治家。

①明治六年の政変で、征韓論を主張した西郷隆盛と板垣退助は政府を去り、
大久保利通が実権を握って殖産興業などの近代化政策を進めた。
しかし、藩閥政治に対する士族の不満が高まり、九州や中国地方で士族の反乱が起こり、
1877年には西郷隆盛が西南戦争を起こした。

②板垣退助は民撰議院設立の建白書を提出し自由民権運動を始めた。
1881年に政府が10年後に国会を開設することを約束すると、
板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成した。

③政府は伊藤博文をドイツへ派遣し、君主権が強いドイツ(プロイセン)の憲法を学ばせた。
1885年には内閣制度を作って初代の総理大臣に伊藤博文を就任させた。
1889年に大日本帝国憲法を発布し、翌年に第一回帝国議会が開かれた。

④帝国議会は貴族院と衆議院の二院制をとっていたが、国民が選挙で選べたのは衆議院議員だけで、
選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者に限られた。

⑤1890年に教育勅語が発布された。
 士族の反乱

【士族の反乱】明治時代初めごろ、政府に不満をもった士族が各地でおこした反乱。
【西南戦争】1877年、鹿児島の士族がおこした大規模な反乱。

  

(1)士族の反乱:
①背景:
明治維新により、日本は封建制度から近代国家への移行を進めました。
その中で、江戸時代に武士として特権的な地位を持っていた士族たちは、
一転してその特権を失い、生活の不安定に直面しました。
廃藩置県や秩禄処分(俸禄制度の廃止)により、
士族の生活基盤が大きく変化したことが原因で、不満が高まりました。

②主な反乱:
士族の不満が高じて各地で反乱が起こりました。代表的なものには以下があります。
佐賀の乱(1874年): 征韓論を支持していた江藤新平らが中心となり反乱を起こしましたが、
政府軍に鎮圧されました。
神風連の乱(1876年): 熊本で起きた士族の反乱で、神風連(敬神党)の名で知られます。
秋月の乱(1876年): 福岡で発生した士族の反乱。
萩の乱(1876年): 山口県の士族が起こした反乱。
これらの反乱は、いずれも急激な社会変化に対する士族たちの抵抗の表れでしたが、
明治政府はこれらを迅速に鎮圧しました。

(2)西南戦争:
①背景:
これらの士族反乱の中でも最大規模となったのが西南戦争(1877年)です。
西南戦争は、旧薩摩藩の士族であり、征韓論を支持していた西郷隆盛が中心となって起こしました。

②経緯:
原因: 西郷隆盛は、政府内での対立から政界を引退し、鹿児島に戻っていました。
士族たちの不満が高まる中、西郷率いる士族が政府に対して反旗を翻しました。
進行: 戦争は九州全域に広がり、主に熊本城の攻防など激しい戦いが続きました。
結末: 西郷軍は物資や数で劣勢となり、最終的に鹿児島で敗北しました。
西郷隆盛はこれにより自決し、西南戦争は終結しました。

③影響:
西南戦争の終結により、士族反乱はほぼ完全に鎮圧され、日本は内乱の危機から脱しました。
この戦争の後、明治政府はさらに中央集権化を進め、
近代化と富国強兵政策に専念することができるようになりました。

士族層はその後、さまざまな形で新しい社会に順応していくことを余儀なくされましたが、
激動する時代に多大な影響を与えた出来事でした。
 自由民権運動

【板垣退助】1837~1919 土佐藩(高知県)の出身で、明治時代・大正時代の政治家。
【自由民権運動】1870~80年代におこった、国民が政治に参加する権利の確立をめざす運動。
【民撰議院設立の建白書】板垣退助らが国会の開設などを求めて1874年に出した意見書。
【国会開設の勅諭】1881年に天皇の名で出された、明治政府が1890年に国会を開くことを示した公約。
【自由党】1881年、板垣退助を党首としてつくられた政党。
【立憲改進党】1882年、大隈重信を党首としてつくられた政党。

 

①征韓論の議論に敗れた板垣退助は、翌1874年に民撰議院設立の建白書を提出しました。

②その中で、
「政権は天皇にも人民にもなく、有司(役人)ににぎられている。
その有司はかってに法律をつくり、自由を圧迫している。
こういう有司の専制が続く限り、国家はくずれてしまうであろう。
・・・それを改める方法は、民撰議院を設立することである。
租税を納める人民は、立法・行政に参加する権利を持っている。
民撰議院こそそのための機関である。」
と述べています。

③さらに、高知県に帰った板垣は立志社を作って、自由民権運動を始めました。

 

④1877年の西南戦争における政府軍の勝利によって、武力によって政府に対抗することは
もはや不可能であることがわかったが、士族や農民の不満は解消していませんでした。

⑤西南戦争以降は、国会開設を求める自由民権運動にしぼられるようになりました。
政府部内でも、欧米列強にならった強国をつくっていくためには、憲法と議会をもつ立憲政治を行って、
国を自主的に支えようとする国民の意識を育てていくことが必要だという考えがありました。

⑥ただ、その実施時期・方法については対立があり、国会の即時開設を主張する大隈重信と、
時間をかけるべきだとする伊藤博文らが対立しました。

⑦1881年、北海道開発のために多額の国費をかけてつくった施設を、
薩摩出身の商人に不当に安い値段で売ろうとしたことが国民に知れて、
藩閥政府を攻撃する声が一層はげしくなりました。

⑧これに対して、政府は10年後に国会を開くことを約束した(国会開設の勅諭)。
同時に、大隈が民権派に情報を流した張本人とみて、大隈を政府から追い出しました。

 

⑨国会開設にそなえ、板垣退助は自由党を結成し、大隈重信は立憲改進党を結成しました。

⑩士族や農民に支持された板垣の自由党は、フランスを理想とし、
大隈の立憲改進党はイギリスを手本としました。
 憲法の準備・内閣制度

【伊藤博文】1841~1909 長州藩(山口県)出身の明治時代の政治家。
【内閣制度】1885年に創設された、内閣を国家の最高行政機関とする制度。
【枢密院】大日本帝国憲法のもとで、国の政治に関する重要事項について天皇の求めに応じて審議した機関。

 

①国会開設にそなえて政府は、伊藤博文をドイツに派遣して憲法を調査させました。

②ドイツの憲法を手本にしたのは、ドイツの憲法は君主権の強い憲法で
わが国の実情にあっていたからです。

③1885年、それまでの太政官制にかわって、内閣制度を作りました。
初代の内閣総理大臣には伊藤博文が任命されました。

④憲法を審議するために枢密院という天皇の相談機関が作られました。
 大日本帝国憲法

【大日本帝国憲法】1889年に発布された日本初の憲法。
【教育勅語】1890年に天皇の名によって出された、国民教育の基本方針を示したもの。

 

(1)大日本帝国憲法:
①背景と成立:
大日本帝国憲法は、1889年2月11日に公布された日本の憲法で、
君主制国家としての日本の基本法となりました。
明治天皇のもとで、伊藤博文を中心に作られ、
日本が近代国家として国際的に認められるために導入されました。
憲法は、君主である天皇が最高の権力をもち、統治する形で制定されました。

②主な内容:
天皇が国家元首であり、統治権を総覧する。
帝国議会(衆議院と貴族院)を設け、国会の役割を持つが、法律の制定などは天皇の名で行われる。
国務大臣は天皇に対して責任を負う形であり、議会の信任が必要ではない。
国民は臣民としての権利が与えられるが、
法律によって制限される可能性がある(言論、集会、宗教の自由など)。

(2)教育勅語:
①背景と成立:
教育勅語は1890年に発布され、明治天皇が教育の基本精神を示した訓示です。
日本の義務教育制度の基礎を築くための指針として、全国の学校で重視されました。

②主な内容:
教育勅語は、忠孝(天皇や親への忠誠と孝養)、博愛、信義などの徳目を重視し、
日本国民としての道徳的な規範を示しました。
家族や国家に対する誠実さや信義に示されるべき倫理観を強調し、
青年が国家の未来を担う者として教育されるべきことを説いています。

③影響:
教育勅語は、日本の教育現場で倫理教育の基盤とされ、終戦直後まで重要視されていました。
第二次世界大戦後の戦後改革で、教育勅語の廃止が決まり、
新しい教育の価値観が求められることになりました。

(3)評価:
これらは日本が近代国家として発展する過程で、法制度や教育で重要な役割を果たしました。
明治時代の日本の動きは今日の社会形成にも影響を与えています。
 帝国議会

【帝国議会】大日本帝国憲法のもとで、法律の制定や予算の承認を行う最高立法機関。
【枢密院】大日本帝国憲法のもとで、国の政治に関する重要事項について天皇の求めに応じて審議した機関。

 

①1890年に第一回帝国議会が開かれた。

②帝国議会は、国民の選挙で選ばれた議員で構成される衆議院と、
皇族・華族の代表と天皇が任命した者、
多額納税者の代表で構成される貴族院の2つの議院から成り立っていた。

③衆議院議員の選挙権は、満25歳以上で、直接国税15円以上を納める男子に限られた。
それは当時の全人口の1.1%にすぎなかった。
 [要点-条約改正・日清戦争と日露戦争]

①不平等条約の改正は明治政府にとって重要課題でした。
明治のはじめに岩倉具視らを欧米へ派遣したり、
鹿鳴館を建てて舞踏会を開いたりした目的は、条約改正でした。
日清戦争の直前、陸奥宗光はイギリスと交渉して領事裁判権の撤廃に成功しました。
関税自主権の回復が達成されたのは1911年で、小村寿太郎が外務大臣のときです。

②朝鮮の甲午農民戦争をきっかけに、1894年、日清戦争が始まりました。
戦争は日本の勝利におわり、下関条約が結ばれ、
日本は3億円の賠償金と台湾・遼東半島を獲得しました。
ロシアは、フランスとドイツを誘って遼東半島を清に返還すべきだと圧力をかけてきたが、
これが三国干渉です。
これに対抗できず、多額の賠償金と引き替えに日本は清に遼東半島を返還しました。

③1900年に義和団事件がおこったが、ロシアはそのまま満州に大軍を駐留し続けました。
これに対抗するため、1902年に日英同盟が結ばれました。
1904年、日露戦争がおこり日本はからくも勝利をおさめ、
アメリカの仲立ちによりポーツマス条約が結ばれました。
日本の全権大使は小村寿太郎でした。
しかし、賠償金が取れなかったことに不満をもった民衆は日比谷焼き打ち事件をおこしました。

④1910年日本は韓国併合を実行しました。
義和団事件ののち、列強の中国侵略が進むなか、孫文は三民主義を唱え、
中国同盟会をつくって革命運動を指導しました。
1911年、辛亥革命がおこって清朝が倒れ、南京を首都とする中華民国が成立し、
孫文が臨時大総統に就任しました。
しかし、軍閥の袁世凱は孫文を追い出して大総統の地位につきました。
 条約改正

【欧化政策】明治時代、日本が欧米同様の文化をもつ近代的な国であることを示そうと進められた政策。
【鹿鳴館】1883年、外国の高官たちを接待するために建てられた官営の建物。
【ノルマントン号事件】1886年、沈没したイギリス船に乗っていた日本人乗客が全員水死した事件。
【陸奥宗光】1844~97明治時代の政治家。
【小村寿太郎】1855~1911明治時代の政治家。

 

①条約改正にいち早く応じたのはアメリカで、
1878年(明治11年)に関税自主権の回復に合意しましたが、
イギリスなどの賛成が得られず実現しませんでした。

②その後、外務大臣井上馨は鹿鳴館に外国人をまねき舞踏会を開くなどして、
条約改正の努力を続けました。

③1886年(明治19年)にイギリス船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没し、
日本人乗客全員が水死する事件が起きました。

④しかし、イギリス領事裁判所はイギリス人船長に軽い罰をあたえただけだったため、
不平等条約改正を求める世論が高まった。

⑤井上は日本国内を外国人に開放することと、外国人を被告とする裁判には
半数以上の外国人裁判官を採用することを条件に交渉をすすめました。
しかし、外国人裁判官の採用については、政府部内でも国家主権の侵害になるとの反対意見が強く、
井上は交渉を中止して外務大臣を辞任しました。

⑥日清戦争直前の1894年(明治27年)、外務大臣の陸奥宗光はイギリスと交渉して
領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の一部の回復に成功しました。

⑦この時期に条約改正にイギリスが応じたのは、ロシアの東アジアへの進出に対抗するため
日本と手を結ぶ政策をとるようになったからです。

⑧それと憲法が制定され議会も開設されて、
アジアで初めて立憲制国家になったことも条約改正に有利に働きました。

⑨関税自主権の完全な回復は、日露戦争後の1911年(明治44年)でした。
そのときの外務大臣は小村寿太郎でした。
 日清戦争

【日清戦争】朝鮮の支配をめぐって、日本と清との間で1894年にはじまった戦争。
【下関条約】1895年に下関で結ばれた日清戦争の講和条約。
【三国干渉】1895年、ロシア・ドイツ・フランスの三国が、
日本に対して下関条約で獲得した遼東半島を清に返還するように要求したこと。

  

  
 
(1)日清戦争の概要:
①期間:
日清戦争は、1894年から1895年にかけて行われた戦争です。

②背景:
戦争の主な背景には、朝鮮半島を巡る日本と清国(中国)の対立がありました。
朝鮮は当時、清国の影響下にありましたが、
日本は朝鮮を独立した国家として影響力を広げようとしていました。
また、日本は中国に対抗できる近代国家としての地位を確立したいと考えていました。

③発端:
1894年、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が発生し、朝鮮政府が清国に援軍を求めます。
日本もこれに対抗して兵を送り、朝鮮における影響力を争う形で日清戦争が勃発しました。

④戦闘の経過:
日本軍は、陸海で次々と清国軍を破り、特に黄海海戦や遼東半島の戦いで大きな勝利を収めました。
戦争が長引く中、1895年までに日本は清国に対して優位に立ち、講和を進めました。

⑤結果:
1895年、日清戦争は下関条約の締結によって終わります。
条約の内容として、清は日本に台湾と澎湖諸島を割譲し、
遼東半島も一時日本に譲ることになりました
(ただし、三国干渉により遼東半島は返還されました)。
また、朝鮮の独立が認められ、対等な国家関係を築くことになりました。

(2)影響:
①日清戦争における勝利は、日本が近代国家として国際的な地位を確立する契機となりました。
台湾の統治が始まり、日本の影響力が東アジア全域に広がることとなります。

②また、戦争を通じて日本国内の産業が発展し、軍需産業が成長する一因となりました。
他方、朝鮮半島では日本と列強の影響力が強まり、その後の歴史的な発展にも繋がっていきます。

 

 列強の中国侵略と義和団事件

【義和団事件】1899~1900年に清でおこった民衆の反乱。
義和団事件は、19世紀末から20世紀初頭にかけて清国で起こった反外国勢力の動きで、
日本を含む多くの国々に影響を与えました。

 

(1)義和団事件の概要:
①時期:
義和団事件は1899年から1901年にかけて発生しました。

②背景:
19世紀末、清国は欧米列強や日本からの圧力にさらされていました。
清国の領土は外国に分割され、特にキリスト教の布教活動が進む中で、
国内に不満が高まっていました。
義和団(または「義和拳」)と呼ばれる排外的な民間団体が、
清国の農村部で「扶清滅洋」(清を助けて外国勢力を滅ぼす)を掲げ活動を開始しました。

③経過:
義和団の活動は次第に過激化し、外国人や中国のキリスト教徒、
そして外国公館に対する攻撃が行われるようになりました。
清国政府(西太后の支持を受ける一部)は、義和団を支持する姿勢を見せ、
外国勢力に対抗しようとしました。

④国際的反応と八カ国連合軍:
欧米列強、日本、ロシアなどが連合して対応することとなり、
八カ国連合軍(日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア)が編成されました。
八カ国連合軍は、1900年に北京を目指して進軍し、清国の反抗を鎮圧しました。

⑤結果:
義和団事件は、1901年に「北京議定書」が締結されることで終わりました。
清国は巨額の賠償金を支払うことを余儀なくされ、外国勢力による影響力がさらに強まりました。

⑥影響:
義和団事件の結果、清国の主権はさらに制限され、外国勢力の影響を受けやすくなりました。
日本は国際的な軍事行動に参加した経験を積み、国際社会での地位を高めることにも繋がりました。

(2)評価:
この出来事は、清国の内外における変革を促し、
後の辛亥革命や中華民国の成立の一因ともなりました。
義和団事件は、中国近代史だけでなく、
日本および国際関係の歴史においても重要な転機となる出来事です。
 日英同盟

【日英同盟】1902年、ロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとの間で結ばれた軍事同盟。
【日露戦争】満州・韓国の支配権をめぐって、日本とロシアとの間で1904年にはじまった戦争。

 

①義和団事件後、ロシアは満州に大軍をとどめて事実上ここを占領し、
朝鮮半島へも勢力を伸ばそうとしていた。

②当時の日本政府は、朝鮮半島がロシアの支配下に入ってしまえば、
次は日本自体が危うくなるという危機感を持っていた。

③こうしたロシアの中国への進出は、イギリスが中国にもつ権益も危うくするものであったので、
イギリスは日本へ接近し、同盟の締結をもちかけた。

④政府部内では強大なロシアと戦火を交えることは避けたいと満韓交換(満州はロシア、朝鮮は日本)で、
ロシアとの妥協をはかりたいとする考えもあったが、
軍事力に自信を持つロシアはこれに応じる様子はなかった。

⑤そこで、政府はイギリスと手を結んでロシアの動きに対抗することを決し、
1902年に日英同盟が締結された。

 

⑥上図は日露戦争の風刺画である。
bのロシアにaの日本が立ち向かい、
cのイギリスが日本を後押ししている様子が描かれている。

⑦イギリスは中国の長江流域を勢力範囲にしていたが、
満州を押さえて南下しようとしていたロシアに対抗するため、
日本と1902年に日英同盟を結んだ。
 日露戦争

【日本海海戦】日露戦争中の1905年5月に、日本とロシアとの間でおこった海戦。
【ポーツマス条約】1905年、アメリカの仲介によりアメリカのポー ツマスで結ばれた日露戦争の講和条約。
【小村寿太郎】1911年、日米通商航海条約を結んで関税自主権の完全回復に成功し、条約改正を実現した。

 

(1)日露戦争:
①背景:
帝国主義の時代: 明治時代の日本は、欧米列強に追いつくために近代化を進めていました。
その一環として、日本は朝鮮半島や満州(現在の中国東北部)への影響力を拡大したいと考えていました。

②ロシアの南下政策:
一方、ロシアは不凍港がある極東地域への進出を図っており、
特に満州および朝鮮半島への影響力を強めようとしていました。

③外交的な対立:
日本とロシアは朝鮮半島と満州での利権を巡って対立を深め、交渉は失敗に終わりました。

(2)戦争の経過:
①開戦:
1904年2月、交渉が決裂した結果、
日本軍はロシアが租借していた旅順港(ポート・アーサー)を奇襲し、戦争が始まりました。

②主な戦闘:
戦争の主要な戦闘には、旅順攻囲戦、奉天会戦(現在の瀋陽会戦)、そして対馬海戦があります。
特に対馬海戦では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、大きな勝利を収めました。

③終結:
1905年9月、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、
両国はポーツマス条約を結び、戦争が終結しました。
この条約で、日本は南樺太(サハリンの南半分)、旅順・大連の租借権、
そして南満州鉄道の権利を獲得しました。

(3)戦争の影響:
①日本の立場の強化:
日露戦争の勝利により、日本はアジアにおける大国として国際的な地位を確立しました。

②国際関係の変化:
ロシアの敗北は世界に衝撃を与え、特に植民地支配を受けているアジア諸国に希望を与えました。

③国内の影響:
日本国内では、戦争遂行に伴う財政負担が大きく、
また、賠償金が得られなかったことによる経済的な不満も生じました。
 韓国併合

【韓国統監府】1905年、日本が韓国の外交を統括するために、漢城(今のソウル)においた日本政府の代表機関。
【韓国併合】1910年、日本が韓国を植民地としたこと。
【朝鮮総督府】1910年の韓国合併後、韓国統監府にかわっておかれた、日本が朝鮮を統治するための機関。

 

①日本は、日露戦争後、韓国統監府を置いて朝鮮の植民地化を進めました。

②初代の韓国統監になった伊藤博文が、朝鮮人青年の安重根に暗殺された事件の後、
1910年に韓国併合を行いました。

③日本は朝鮮総督府を設置して、武力を背景にした朝鮮支配を進め、
学校では朝鮮史を教えることを禁じ、日本史や日本語を教えて、
日本人に同化させる教育を行いました。

④また、土地の調査を進め、所有権が明確でない土地を取り上げました。
 中国の辛亥革命

【辛亥革命】1911年10月10日に中国でおこった民主主義革命。
【孫文】1866~1925 中国革命の指導者。
三民主義を唱えて革命運動を指導し、1912年、辛亥革命により成立した中華民国の臨時大総統になった。
【三民主義】孫文が唱えた、革命の指導理論。
【袁世凱】1859~1916 清朝末期から中華民国初期の軍人・政治家。
【中華民国】辛亥革命によって、1912年中国に成立したアジア最初の共和国。

 

1911年に清朝が倒れ、中華民国が成立するきっかけとなった中国の革命運動です。
この革命は、中国の近代史において非常に重要な出来事です。

(1)背景:
①清朝の衰退:
清朝は19世紀に入ってから、アヘン戦争や太平天国の乱など、
国内外の問題に直面し、国力が徐々に衰えていきました。

②外国勢力の進出:
欧米、日本などの列強による中国への経済的、政治的干渉が強まり、
中国は半植民地状態に置かれていました。

③改革運動の失敗:
1898年の戊戌変法などの政治改革が保守派の抵抗により失敗し、
政治的不満が増大しました。

④革命思想の広がり:
孫文(孫中山)を中心とする革命派は、西洋の思想を取り入れ、
民族主義、民主主義、民生主義を掲げ、中国国内外で活動を展開しました。

(2)経過:
①武昌起義(ぶしょうきぎ):
1911年10月10日に湖北省の武昌で軍隊が蜂起したことをきっかけに、
各地で反清政府の動きが広がりました。これが辛亥革命の発端となりました。

②革命の拡大:
武昌起義を機に、各省が次々と清朝からの独立を宣言し、革命が全国に広がりました。

③宣統帝の退位:
1912年2月12日、最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅 溥儀)が退位し、清朝は滅亡しました。

④中華民国の成立:
清朝の滅亡後、孫文が南京で臨時大総統に就任し、中華民国の成立が宣言されました。

(3)結果と影響:
①政治体制の変化:
中国で初めて共和制が導入され、清朝に代わり中華民国が成立しました。

②持続する混乱:
革命後も、中国は軍閥割拠の時代に突入し、政治的統一が難航しました。
このため、理想とする民主的な安定政権の実現には時間を要しました。

③アジアへの影響:
辛亥革命は、アジア諸国における革命運動に影響を与え、
中国以外の地域でも国民の政治意識を高めることとなりました。

(4)評価:
辛亥革命は、中国の近代化と共和政の出発点となり、その後の中国の歴史に大きな影響を与えました。

 [要点-資本主義の発展と明治の文化]

①日本でも19世紀末頃に、軽工業を中心にした産業革命が始まった。
日清戦争の賠償金でつくられた八幡製鉄所は重工業の出発点となった。

三井・三菱・住友・安田などの大資本家は財閥と呼ばれるようになり経済を支配した。
足尾銅山の鉱毒事件などの公害が発生し、田中正造は日本最初の公害反対運動を指導した。

②岡倉天心とアメリカ人フェノロサは日本画を復興させた。
洋画では「読書」を描いた黒田清輝が有名である。

③音楽では、「荒城の月」などを作曲した滝廉太郎が有名である。
文学では、明治の文豪とよばれる夏目漱石が個人主義の立場から、社会をきびしく見つめた。

 日本の産業革命

【産業革命(日本)】明治以降の日本でおきた、産業の発展。
【軽工業】日常生活に用いる消費財など、比較的軽い製品を生産する。
【重工業】大資本と高度な技術を用いて、容積のわりに重量の重い製品を生産する工業。
【八幡製鉄所】1901年、北九州で操業を開始した官営の製鉄所。
【財閥】金融を中心に、さまざまな事業を経営し、日本経済全体に大きな支配力をもつようになった大資本家とその一族。

 

①1880年代の中ごろから、紡績業や製糸業などの軽工業を中心として産業革命が起こりました。

②その結果、日本は綿製品を自給できるようになり、
1890年ごろからは中国・朝鮮に輸出するようになりました。

③また、製糸業の製品である生糸の大部分をアメリカに輸出して、
兵器や機械・原料を輸入する資金を得ました。

④重工業では、日清戦争後の1901年、清国からの賠償金をもとに官営の八幡製鉄所が建設され、
その後、鉄鋼、電気、造船などが発達しました。

⑤こうした産業の発展の中で三井、三菱、住友、安田の資本家は、
金融・貿易・鉱山業などの多角経営を行って、日本経済を支配する財閥に成長していきました。

 労働問題・公害

【足尾銅山鉱毒事件】明治時代後半に渡良瀬川流域でおこった公害問題。

 

①労働者は長時間労働・低賃金に苦しみましだ。

②そこで、労働者は団結して資本家に待遇改善を要求する労働運動を行い、
社会主義思想も広まり始めました。

③また、鉱工業が盛んになると、排水や煙による被害も出るようになりました。

④栃木県の足尾銅山では鉱毒が農産物などに被害を与え、
田中正造を中心にした公害反対運動が起こりました。

 明治の文化

①
[文学]
 

坪内逍遙:「小説神髄」
島崎藤村:「破戒」「若菜集」
夏目漱石:「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」
森鷗外 :「舞姫」
樋口一葉:「にごりえ」「たけくらべ」
与謝野晶子:「みだれ髪」
石川啄木:「一握の砂」
正岡子規:俳句の近代化につとめた。

②
[絵画・音楽]
 

黒田清輝:「読書」「湖畔」「舞妓」
岡倉天心:フェノロサとともに日本の伝統美術の復興に力を注いだ。
横山大観:「無我」
狩野芳崖:「悲母観音像」
高村光雲:「老猿」
荻原守衛:洋風の近代彫刻。「女」
滝廉太郎:「荒城の月」

③
[医学・科学]
北里柴三郎:細菌学で破傷風血清療法の発見。
野口英世 :黄熱病の研究を行った。
志賀潔  :赤痢菌を発見した。
長岡半太郎:原子物理学

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