社会2年 日本の歴史(江戸時代)

 江戸
 [要点-江戸時代]
 
 年代  おもなできごと
 1600  関ヶ原の戦い:徳川家康が石田三成らの豊臣方を破る
 1603  徳川家康、征夷大将軍になり、江戸幕府を開く
 1615  大阪の陣:豊臣家の滅亡
 1615  武家諸法度の制定:大名が守るべき規則を定める
 1635  参勤交代を定める:大名は1年おきに江戸と領地を往復。徳川家光のとき
 1637  島原・天草一揆:キリスト教農民の一揆。絵踏や宗門改めを行う。
 1639  鎖国の完成:ポルトガル人の来航を禁止。オランダと中国のみ、長崎の出島
 1649  慶安の御触書:農民の生活を統制。五人組の制度で年貢納入の共同責任。
千歯こき、備中ぐわが普及、新田開発や干拓(有明海、児島湾) → 農業の発達
商業の発達、都市の発達:大名が蔵屋敷を置いた大阪は「天下の台所」。五街道
 1680  徳川綱吉、第5代将軍:財政不足 → 貨幣の質を落とす。
儒学の中の朱子学を奨励
元禄文化:京都や大阪などの上方を中心に栄える。
菱川師宣(浮世絵)
近松門左衛門(人形浄瑠璃)、井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)
 1716  徳川吉宗、第8代将軍に。享保の改革。公事方御定書(裁判の基準)、目安箱
 1772  田沼意次、老中になる。:株仲間の奨励、わいろの横行
 1774  前野良沢、杉田玄白が「解体新書」を著す。蘭学
 1782  天明のききん → 農村では百姓一揆、都市では打ちこわしが頻発した。
 1787  松平定信が老中になり、寛政の改革
 1798  本居宣長「古事記伝」を著し、国学を大成。このころ、寺子屋が普及。
化政文化:江戸を中心にした文化。狂歌や川柳、浮世 → 錦絵
 1825  異国船打払令 → 蘭学者の渡辺崋山と高野長英が批判 → 処罰される
 1833  天保のききん
 1837  大塩平八郎の乱
 1841  水野忠邦の天保の改革:異国船打払令の緩和、株仲間の解散

①徳川家康は豊臣秀吉の死後、1600年に豊臣氏をもりたてようとする石田三成らを関ヶ原の戦いで破り、
1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。

1万石以上の領地を持つ武士を大名といい、その領地と支配の仕組みを藩と呼んだ。
1万石未満の将軍の家臣を旗本、御家人と呼んだ。

②幕府は、大名を将軍の一族である親藩、関ヶ原の戦いの前からの家臣である譜代大名、
関ヶ原の戦以後家臣になった外様大名に分けた。

重要な地方には親藩や譜代大名を配置し、外様大名は遠い地域に置いた。
1615年、幕府は武家諸法度を定め、さらに第3代将軍徳川家光のときに参勤交代を制度化した。

③士農工商の身分制度を徹底させ、特に人口の85%をしめる農民については、
1649年に「早起きし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し・・・」という慶安の御触書を出して日常生活を細かく統制した。

また、 年貢納入や犯罪防止などについて共同の責任を負わせる五人組の制度をつくった。
 江戸幕府の成立

【関ヶ原の戦い】1600年、関ヶ原(岐阜県)で、石田三成らの西軍が徳川家康らの東軍に敗北した戦い。
【徳川家康】1542~1616 三河(愛知県)出身の戦国時代・安土桃山時代の大名で、江戸幕府初代将軍。
【石田三成】1560~1600 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に仕え、五奉行の1人として重用された。
【大坂の陣】江戸時代初め、徳川家康が豊臣氏をほろぼした戦い。

 

①豊臣秀吉の死後、徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成を中心とする豊臣方を破り実権を握った。

②1603年には征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。

③さらに、1615年には豊臣氏を大阪の陣で滅ぼした。
 江戸幕府の組織

【江戸幕府】1603年に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸城を本拠地として開いた幕府。
【京都所司代】京都におかれ、朝廷や西国大名の監視、京都町奉行の統轄などにあたった。
【老中】江戸幕府において、将軍のもとで幕政を総括する最高職。
【大老】江戸幕府において、将軍のもとに臨時におかれる最高職。
【三奉行】江戸幕府の寺社奉行・町奉行(江戸)・勘定奉行の総称。

 

①将軍のもとにあって幕政を統括したのは複数人からなる老中で、
重要事項はその合議で決められた。
老中の下に町奉行(江戸の町の政治や警察)、大目付(大名の監視)が置かれた。

②また、京都には朝廷と西国の大名の監視を行う京都所司代が置かれた。
 幕領

【幕領】江戸幕府の直接の支配地。天領ともよばれる。

 

①幕府の直轄領を幕領といいます。
幕府は全国の4分の1の領地をもち、大阪・京都・長崎などの重要な都市や、
佐渡の金山など国内の主な鉱山を直接に支配し、貨幣の鋳造権も独占していたため、
他の大名とは桁違いの経済力を持っていました。

②このような強力な経済力と軍事力を背景に徹底した大名統制を行い、
こののち260年あまりも続く平和な時代をつくりあげました。
 親藩・譜代・外様の配置

【幕藩体制】幕府と藩の力で全国の土地と人民を支配する江戸時代の支配体制。
【藩】江戸時代の大名の領地とその政治組織。
【親藩】江戸時代の大名で、徳川家の一門。
【譜代大名】江戸時代の大名で、古くから徳川氏の家臣であった大名。
【外様大名】江戸時代の大名で、関ヶ原の戦い前後に、徳川氏に従った大名。
【旗本】江戸幕府において、領地が1万石未満の将軍直属の家臣のうち、将軍に直接会うことができる者。
【御家人】江戸幕府において、領地が1万石未満の将軍直属の家臣のうち、将軍に直接会うことができない者。

 

①江戸時代の幕藩体制(ばくはんたいせい):
17世紀初頭から19世紀半ばまでの日本における政治制度で、
江戸幕府と各藩によって構成されていました。

②江戸幕府:
江戸幕府は1603年に徳川家康によって設立された中央政府です。
幕府は将軍を頂点とし、全国を統治しました。
将軍は武家の棟梁であり、全国の大名を統制する権限を持っていました。

③藩:
日本全国は数百の藩に分かれていました。
藩は大名(その土地の領主)によって治められており、大名は将軍から直接領地を与えられた家臣です。
各藩はある程度の自治権を持ち、独自の法律や政策を実施することができましたが、
幕府からの一定の統制を受けていました。

④参勤交代:
大名は定期的に江戸に出仕することが義務付けられていました。
この制度は参勤交代と呼ばれ、大名が国元から江戸に出向くことで、
幕府は大名を監視し、反乱を防ぐ役割を果たしました。

⑤支配体制:
幕藩体制は中央集権と地方分権のバランスを保つものでした。
幕府は直轄地を持ち、重要な都市(例えば江戸、大坂、京都など)や鉱山を直接統治しました。
他の地域は藩主が統治するという形で、中央の権威と地方の自治を調和させていました。

⑥経済政策:
幕府は農業を基盤とし、重農主義を基本に経済政策を展開しました。
また、江戸と大坂を結ぶ五街道の整備や、貨幣鋳造などによって商業活動を支えました。

⑦身分制度:
江戸時代の社会は厳格な身分制度(士農工商)がありました。
武士、農民、職人、商人の4つの主要な身分があり、この身分によって職業や生活が規定されていました。

⑧鎖国政策:
長崎の出島を除いて外国との関係を制限する鎖国政策が敷かれ、
国内の安定を図る一方で、海外からの影響を最小限に留める努力がなされました。

 
 武家諸法度・参勤交代

【武家諸法度】江戸幕府が大名を統制するために定めた法律。
【参勤交代】江戸時代、大名に義務づけられた、1年おきに領地と江戸を往復する制度。

 

①最初の武家諸法度は二代将軍徳川秀忠のときに出され、以後、将軍が代わるたびに出されました。

②江戸幕府初期には、多くの大名が武家諸法度違反などの理由で処罰されました。
たとえば、1619年、関ヶ原の合戦で功績があった福島正則は、
武家諸法度で禁じられていた城の修築を無断で行ったという理由で、お家取りつぶしの処罰を受けました。

③三代将軍徳川家光は参勤交代の制度を定め、大名は江戸に妻子を人質として置き、
1年おきに領地と江戸を往復することを義務づけました。
往復のための費用や江戸での生活のための費用は大きな負担となり、
このために各藩の財政は非常に苦しくなり、大名の経済力が弱められました。
 士農工商の身分制度
 
【士農工商】江戸幕府の身分制度。士は武士、農は農民、工は職人、商は商人を表す。
【百姓】農業や漁業、林業などを行って生活をする人々。
【庄屋】江戸時代、村の運営にあたった村役人の長。
【町人】江戸時代、商工業に従事していた人々。

 

①江戸時代の身分制度:
社会を安定的に維持するために設けられた厳格な階級制度で、
「士農工商(しのうこうしょう)」という用語で表現されます。
この制度は江戸時代を通じて非常に重要でした。

②士(武士):
武士は江戸時代の支配階級であり、将軍や大名の家臣として働いていました。
武士には知行地が与えられ、そこで農民から年貢(税)が徴収されました。
武士は帯刀することが許されており、名誉と責任を持って社会を統治しました。
武士の中でも身分が細かく分かれており、上位には大名や旗本、下位には足軽などがありました。

③農(農民):
農民は土地で農作物を育て、主に米を生産していました。
生産された米は年貢として徴収され、武士の給与や幕藩体制の財政基盤となりました。
農民は土地を直営しませんでしたが、村単位での自治が認められ、村役人が地方行政を担っていました。

④工(職人):
職人は都市部や村で工芸品や日用品を作る技能者たちです。
工業製品の需要が増える中で、職人たちの役割は重要でした。
職人は通常、町人地に住み、特定の仕事を世襲的に受け継いでいました。

⑤商(商人):
商人は商品を流通させる役割を持ち、経済の中で重要な役割を果たしました。
江戸や大坂を拠点とし、米や工業製品を扱っていました。
富を得た商人は社会的にも影響力を持つようになり、地域社会に対しても支援を行い、文化にも貢献しました。

⑥これに加え、士農工商の枠外に位置付けられた人々も存在しました。
地位が低いとされた非人や穢多(えた)などは、当時の社会で差別を受け、
特定の職業や居住地に制限がかけられました。
 農民統制

【五公五民】江戸時代、田畑に課せられた年貢の割合をいいあらわしたことば。
【村八分】江戸時代、村の掟や村のしきたりにそむいた者に加えられた制裁の1つ。
【五人組】江戸幕府が農民を取りしまるためにつくった制度。
【慶安の御触書】江戸幕府が農民の生活を統制するために定めたきまり。

 

 

①武士の生活は百姓が納める年貢で支えられていました。
幕府や藩は、四公六民(収穫高の4割が年貢で、6割が百姓の手元に残る)や
五公五民という重い年貢を取り立て、財政をまかないました。

②百姓から年貢を安定して取るために、土地の売買を禁止したり、
米以外の作物の栽培を制限したりするなど、さまざまな規制を加えました。

③1649年に慶安の御触書を出して、
「朝には早起きして草を刈り、昼は田畑の耕作をし、・・・」「酒や茶を買って飲んではならない」など
百姓の生活のあらゆる面にわたって細かく規制しました。

④また、五人組の制度をつくり、五戸前後を一組として年貢の納入や犯罪の防止などについて
百姓に連帯責任を負わせました。
 朱印船貿易と日本町

【朱印船貿易】幕府から渡航許可状(朱印状)があたえられた船(朱印船)による貿易。
【日本町】朱印船貿易の発展にともない、東南アジア各地に栄えた日本人が住む町。

  

①江戸時代の朱印船貿易:
17世紀初頭に行われた日本と東アジア・東南アジア諸国との間の貿易活動です。
この貿易は、徳川幕府が発行する朱印状という公式な許可証(朱印)がないと行えなかったため、
「朱印船貿易」と呼ばれています。

②朱印状の発行:
朱印船貿易を行うためには幕府からの許可が必要でした。
許可を得た商人や大名は、朱印状という公式な文書を発行され、それを持参して貿易を行いました。
朱印状を持つことで、日本船は日本政府公認の貿易船として認識され、各地での交易が可能になりました。

③貿易の範囲:
主な交易地は東アジアと東南アジア諸国でした。
具体的には、現代のフィリピン、タイ、ベトナム、カンボジア、インドネシア、
マレーシアなどの地域と貿易が行われました。
日本からは銀、銅、工芸品、武具などが輸出され、
東南アジアからは香辛料、絹織物、中国茶、薬草などが輸入されました。

④商人と大名:
朱印船貿易には、豪商や一部の大名が積極的に参加しました。
特に堺や長崎の商人がその中心的役割を果たしました。

⑤目的と影響:
貿易は日本にとって経済的利益だけでなく、国際的な情報の取得にも役立ちました。
日本国内の経済発展に寄与し、都市の繁栄や大名の財政基盤強化にも寄与しました。

⑥終焉:
1630年代に幕府が鎖国政策を進めたことにより、朱印船貿易は徐々に制限され、停止されました。
ポルトガルとの交易が厳しく制限され、1639年には鎖国が完成しました。
この結果、長崎の出島を介したオランダ、清との限られた貿易が続けられるのみとなりました。
 [要点-キリスト教の禁圧と鎖国]

①徳川家康は朱印船貿易をすすめ、東南アジア各地に日本町が作られた。

②1637年、第3代将軍徳川家光のとき、島原・天草地方のキリスト教農民が島原・天草一揆をおこした。
幕府はキリスト教の禁止を徹底して行い、絵踏を実施した。
さらに、幕府は1639年にポルトガル人の来航を禁止し、ついでオランダ人を長崎の出島に集め、ここだけで貿易を許した。
これを鎖国という。このころ中国では明が滅んで清が建国された。

③将軍がかわるたびごとに朝鮮通信使が訪れた。

④琉球王国は、17世紀のはじめに薩摩藩によって征服された。

⑤また、蝦夷地は松前藩による圧迫を受けたアイヌ民族が、その族長のシャクシャインの指揮のもと反乱をおこした。
 島原・天草一揆と鎖国

【島原・天草一揆】1637年、九州の島原(長崎県)・天草(熊本県)地方でおこった、キリスト教徒を中心とする農民の一揆。
【踏絵】江戸幕府がキリスト教の信者を発見するために用いた方法。
【宗門改め】江戸幕府がキリスト教信者を発見し、キリスト教から仏教へ宗教をかえることを強制するために実施した信仰調査。
【鎖国】江戸幕府が行った、日本人の海外渡航と外国船の来航を禁止する政策。
【出島】鎖国中、オランダ人が江戸幕府によって貿易することが認められた唯一の貿易地。

 

【島原・天草一揆】
1637年から1638年にかけて九州の島原半島と天草諸島で起きた
大規模な農民とキリスト教徒(キリシタン)による反乱です。
この一揆は、江戸時代中期の社会情勢を大きく影響し、後の鎖国政策の強化に繋がりました。

①島原・天草一揆:
背景:
一揆が発生した地域、島原と天草は、キリスト教信仰が密かに広まっていた場所です。
地域住民は過酷な年貢の取り立てや領主による圧政に苦しめられており、
社会的不満が高まっていました。

発生:
1637年10月、島原藩の過酷な政策への不満や収奪に耐えかねた農民たちや
隠れキリシタンが反乱を起こしました。
天草四郎時貞という若い指導者が現れ、一揆軍の指導者として信仰と反乱の象徴となりました。

経過:
一揆軍は島原城を包囲し、反乱は数ヶ月にわたり激しいものになりました。
幕府は大軍を派遣し、最終的に1638年4月に一揆軍を鎮圧しました。
この戦いで3万7千人以上が命を落としました。

影響:
この一揆は、キリシタン信者によって引き起こされたとみなされ、
幕府はキリスト教に対する弾圧をさらに強化しました。
その後、キリスト教の信仰は一層厳しく禁止され、追放や改宗が強制されました。

②鎖国とその関係:
鎖国政策の形成:
島原・天草一揆は、幕府にとって外国勢力や外来宗教(キリスト教)が
国内の秩序を乱す可能性があるという認識を強くしました。
一揆の鎮圧後、幕府は外部からの影響を徹底的に排除しようとし、
1639年にポルトガル船の来航を禁止するなど、鎖国政策を完成させました。

鎖国の特徴:
外国との貿易や交流は厳しく制限され、
長崎の出島を通じてオランダと中国(清)との間だけで限定的に行われました。
海外渡航や帰国、特に西洋との接触は厳しく禁じられ、これに違反した場合は罰せられました。
鎖国政策は、約200年間にわたって日本の平和と安定を保ちましたが、
外部からの文化的、技術的影響を制限しました。
明治時代以降に日本が国際社会に再び開放されるまで、この政策は続きました。
 朝鮮・琉球・蝦夷地

【朝鮮通信使】江戸時代、朝鮮から日本に訪れた使節。
【対馬藩】江戸時代、鎖国下において朝鮮との貿易が認められていた藩。
【琉球使節】薩摩藩の支配下におかれた琉球王国が、将軍や琉球国王の代がわりごとに江戸に派遣した使節。
【松前藩】江戸時代、アイヌの人々が住む蝦夷地(北海道)との独占的な取り引きが認められていた藩。
【シャクシャイン】江戸時代、蝦夷地に住むアイヌの人々が反乱をおこしたときの指導者。

 

①朝鮮通信使:
朝鮮通信使は、江戸時代に朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団です。
1607年から1811年まで、計12回にわたって日本を訪れました。
目的としては、両国の友好関係の確認や文化交流、情報交換が挙げられます。
通信使は通常、大規模な団体で、日本への影響も大きかったです。
彼らの訪問を通じて、日本は朝鮮からさまざまな文化や技術を受け入れ、
日本国内でもその影響は教育や出版、さらには美術や音楽にまで広がりました。

②琉球使節:
琉球使節は、琉球王国(現在の沖縄)が中国(明または清)や
日本(特に江戸幕府)に派遣した使節です。
琉球は中国との冊封関係を結び、同時に薩摩藩を通じて江戸幕府とも関係を持っていました。
そのため、琉球使節は実質的に両国との外交を維持するための役割を担っていました。
使節は中国の冊封使の訪問時や、江戸幕府との関係強化のために派遣され、
琉球の文化や技術を伝える役割も果たしました。

 

③17世紀の初め、琉球は薩摩藩に征服されました。
薩摩藩は、年貢米を取り立てるなど、きびしく監督をしたり中国や東アジアとの貿易を
幕府と薩摩藩の管理の下で続けさせたりして利益を得ました。

④蝦夷地にはアイヌ人が住んでいたが、蝦夷地南部に領地をもつ松前藩は、
アイヌ人との取引を独占し暴利をむさぼっていました。
これに対して、アイヌ人は17世紀の後半、シャクシャインを指導者として戦いを起こしました。
松前藩は幕府に助けを求めて、ようやくこれを鎮めました。
 [要点-産業・都市の発達]

①江戸時代初期、新田開発がさかんに行われ、九州の有明海や
岡山の児島湾では干拓が行われました。
その結果、秀吉の時代から100年の間に田畑面積は約2倍になりました。

農具も改良され、土地を深く耕すことのできる備中ぐわ、脱穀のための千歯こき、
米の選別のための千石どおしが発明されました。

②当時、江戸は「将軍のおひざもと」と呼ばれ、
ここを中心として東海道や中山道などの五街道が定められました。
大阪は「天下の台所」と呼ばれ、年貢米の保管のために各大名が置いた蔵屋敷がありました。
また、京都は西陣織や清水焼で有名でした。
江戸、大阪、京都をあわせて三都といいます。
 農業の発達

【新田開発】新しく土地を開墾して田畑を広げること。

  

①新田開発の背景:
江戸時代(1603年-1868年)は、比較的安定した平和な時代であり、
人口の増加に伴って食糧需要が高まりました。
これに対応するために、新たな農地を開墾して生産を増やす「新田開発」が行われました。

②新田開発の方法:
新田開発では、以下のような方法が用いられました:
干拓新田:海や湖の干潟や沼を干拓して開発する。
これは特に瀬戸内海や諏訪湖周辺で行われました。
畑地新田:山地や台地の樹木を伐採して畑地に転換する。
これは関東地方などで盛んに行われました。
河川新田:川の氾濫原を堤防で囲んで開発する。
これは川沿いの地域で一般的でした。

③新田開発の影響:
生産量の増加:これにより、米の生産量が増え、農民の生活が安定しました。
経済の発展:米の取引を通じて、各地で地域経済が活性化しました。
村社会の形成:新田開発によって新たにできた集落では、村社会が形成され、
自治的な運営が行われました。

④主な新田開発者:
江戸時代には、多くの大名や豪農、商人たちが自らの資金を投じて新田開発を進めました。
特に有名なのは、甲斐国(現在の山梨県)の大久保長安や、
上総国(現在の千葉県)の井伊直興などです。
また、幕府も政策として新田開発を奨励し、資金や技術の援助を行いました。
 農具

【備中ぐわ】江戸時代に普及した、刃の先が3~4本に分かれたくわ。
【千歯こき】江戸時代に発明された、稲や麦の脱穀に使う農具。
【千石どおし】江戸時代中期ごろから用いられた、もみすり後の玄米ともみとを選別する農具。
【唐み】江戸時代中期に普及した、米粒やもみがら、ちりなどを分ける農具。

 

①江戸時代になって、備中ぐわ(土を深く耕すことを可能にした)、
千歯こき(稲穂からもみをしごいてとる(脱穀))、
千石どおし(米粒をふるいわける)、
唐み(風を送りもみがらなどを取り去る)などの農具が発明され、農業技術が向上しました。
 水産業や鉱業の発達

【干鰯(ほしか)】いわしを日干しにしてつくられたもの。
【佐渡金山】佐渡島(新潟県)にあった大規模な金・銀山。
【足尾銅山】栃木県日光市にある銅山の1つ。

 

①水産業では、網が改良されて大量漁獲が可能になりました。
九十九里浜(千葉県)では、このような網を使った大規模ないわし漁がおこなわれるようになりました。

②いわしは干鰯(ほしか)という肥料に加工されて、近畿地方などの綿作地帯に売られました。
干鰯や油かすなどの新しい肥料は金肥(金のかかる肥料)とよばれました。

③蝦夷地では、にしん漁やこんぶ漁が発達し、南西海域では捕鯨やかつお漁がさかんになりました。

 

④採掘・排水・精錬などの技術進歩により、佐渡金山、生野銀山、別子銅山、足尾銅山などが開かれ、
17世紀の初めに、日本は世界でも有数の金銀産出国になりました。

⑤17世紀後半になると、金銀の産出量は急減し、かわって銅の産出量が増加しました。
 都市の発達

【蔵屋敷】江戸時代、諸藩が年貢米や特産物を売るために設けた倉庫兼取引所。
【天下の台所】江戸時代の大阪をさすことば。
【将軍のお膝元】江戸時代の江戸を指すことば。
【三都】江戸時代に栄えた江戸、大阪、京都の3つの都市を指すことば。

 

①各地の大名は、大阪に蔵屋敷をおいて、年貢米や特産品を大商人に売りさばかせ、
藩の財政を維持しました。

②大阪は、全国の物資の集散地として栄えた商業都市で、「天下の台所」とよばれました。

③京都は西陣織という高級絹織物などの工芸品の発達した都市でした。
大阪・京都を上方といいます。

④江戸は「将軍のおひざもと」といわれ、人口は約100万人に達しました。
江戸、大阪、京都をあわせて三都と呼びます。
 交通・商業の発達

【菱垣廻船】江戸時代に運航された、大阪・江戸間を結ぶ定期船。
【西廻り航路】江戸時代に運航された、東北地方から日本海沿岸を通り下関(山口県)経由で大阪にいたる航路。
【東廻り航路】東北地方から太平洋沿岸を通って江戸に至る航路。
【両替商】江戸時代、貨幣の交換をはじめ、預金・貸付、手形の発行などを扱った商人。

 

(1)五街道とは:
五街道は、江戸時代に幕府が整備した主要な五つの幹線道路のことを指します。
これらは、当時の日本の交通と物流の基幹であり、
江戸(現東京)と諸国を結ぶ重要な道筋でした。
五街道の整備により、物資や情報、さらには人々の移動が活発化し、
経済や文化の交流が促進されました。

(2)各街道の特徴:
①東海道:
江戸と京(京都)を結ぶ街道で、五街道の中で最も重要であり、距離も最長です。
現在の東京から神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀を通って京都に至ります。
宿場町として、箱根関所などが有名です。

②中山道:
江戸と京都を結ぶもう一つの主要街道。
東海道が海沿いを通るのに対し、中山道は内陸部を通ります。
側道に草津町や中津川があり、険しい山地を越えるルートでもあります。

③甲州街道:
江戸と甲府(現山梨県)を結び、さらに信濃国(長野県)にも通じていました。
短い距離ですが、甲斐国へのアクセスとして重要でした。

④奥州街道:
江戸から東北地方の白河(現福島県)を経て、
奥羽地方(現在の青森・岩手・秋田など)に至る街道。
東北諸国への軍事的、経済的往来を支える重要な路線でした。

⑤日光街道:
江戸と日光(現栃木県)を結ぶ道で、徳川家康を祀る日光東照宮への参詣路として整備されました。
徳川将軍家の重要な参拝道であり、政治的・宗教的な意味合いを持っていました。

(3)五街道の意義:
五街道の整備は、幕府の権力維持と統治の効率化に役立ちました。
各藩に対して交通網の利用を監視する役割を果たしたほか、
参勤交代制度の運用にも欠かせませんでした。
さらに、宿場町の発展を促し、文化の交流にも寄与しました。

このように、五街道は江戸時代の日本社会において、
人々の生活や経済活動を支える重要なインフラでした。

 

(4)東廻り航路:
東廻り航路は、おもに日本海側から太平洋岸を経由して江戸に至る航路です。
この航路は、東北地方や北陸地方から江戸への物流を担いました。

ルート:日本海側の港(例えば酒田や青森)から出発し、
津軽海峡を通って太平洋側に入り、江戸湾へ向かいます。
主要な輸送品:米や海産物、酒などが主に運ばれました。
特徴:この航路により、日本海側の物資を効率的に江戸まで運ぶことができ、
東北地方の産品が江戸で流通しやすくなりました。

(5)西廻り航路:
西廻り航路は、瀬戸内海を通って太平洋側へ向かう航路で、特に西日本からの物流を支えました。

ルート:九州や中国、関西地方など西日本の各地から瀬戸内海を通り、
紀伊水道を抜けて太平洋側に出て、江戸に向かいます。
主要な輸送品:こちらも米のほか、塩、水産物、酒などが運ばれました。
特徴:西日本の物資が江戸に集まり、消費地である江戸の需要を満たしました。
また、内海の瀬戸内海を経由するため、比較的安全に大量の物資を輸送することができました。

(6)両航路の意義:
経済の発展:東廻り航路と西廻り航路は、江戸の都市としての発展を支え、経済の流通を円滑にしました。
これによって、各地方の特産品が広く流通し、地域経済の活性化が促されました。
交通・物流の効率化:このような航路の整備は、当時の物流を画期的に効率化し、
日本全体の経済の発展につながりました。
江戸時代の航路整備は、陸上の五街道と並ぶ重要な交通網であり、
物資の流通だけでなく、文化や情報の交流にも大きな役割を果たしました。

(7)廻船:
①江戸・大阪間には菱垣廻船、樽廻船とよばれる船が運行され、
菜種油、酒、しょうゆ、木綿などが大阪から江戸へ運ばれました。

(8)株仲間:
①大商人は株仲間という同業者組合をつくり、幕府の許可を得て営業を独占し、
大きな力を持つようになりました。
金銀を両替する両替商も増え、江戸の三井や大阪の鴻池のように有力なものは、
大名の財政にも影響力を持つようになりました。

②江戸の越後屋呉服店は「現金掛値なし」という薄利多売の新しい商法で大成功しました。
 [要点-元禄文化]

①動物愛護の悪法である「生類憐みの令」で有名な第5代将軍徳川綱吉は、
金貨の質を悪くして財政難をきりぬけようとしたが、逆に物価の上昇を招きました。

②第6、7代将軍に用いられた新井白石は金貨をもとに戻し、
長崎貿易を制限して金銀の海外流出を防ぎましだ。

③17世紀末から18世紀始めにかけて上方で栄えた文化を元禄文化といいます。
文学では、『曽根崎心中』などの人形浄瑠璃の台本を書いた近松門左衛門、
浮世草子の作者で「日本永代蔵」を書いた井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉が名高い。
絵画では、浮世絵の菱川師宣が有名です。
 元禄文化

【元禄文化】17世紀末から18世紀初めの元禄平間(1688~1704年)に、京都や大阪の上方を中心に栄えた文化。
【浮世絵】江戸時代に流行した、町人の風俗を描いた絵画。

 

(1)元禄文化の時代背景:
元禄文化は、江戸時代中期の元禄年間(1688年から1704年)に栄えた文化を指します。
この時期は、戦国時代が終わり、江戸幕府の統治が安定し、
平和と経済の発展が進んだ時代です。
商業や都市が発展し、特に江戸や大阪、京都などの都市部では
町人(商人や職人)層の経済力や文化的影響が高まりました。

(2)元禄文化の特徴:
①町人文化の発展:
浮世絵:江戸時代の庶民の生活や風俗を描いた絵画で、後の芸術にも大きな影響を与えました。
著名な例には、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の作品があります。
歌舞伎:町人文化を代表する演劇で、華やかな舞台や衣装が特徴です。
市川団十郎や坂田藤十郎といった名優が活躍しました。
人形浄瑠璃:現代の文楽に続く、人形劇のひとつで、脚本家の近松門左衛門が人気を博しました。

②文学の発展:
俳諧:松尾芭蕉がこの時期に活躍し、『奥の細道』などの作品で知られています。
彼の俳諧は、詩的で深い感受性を持ち、美しい自然描写が特徴です。
浮世草子:井原西鶴による町人生活を題材にした文学で、
『好色一代男』『日本永代蔵』などがあります。

③風俗と流行:
この時期には、裕福な町人層を中心に贅沢な装いが流行し、ファッションや遊興の文化が栄えました。
このため、贅沢や遊興に興じる文化も発展しました。

(3)元禄文化の意義:
元禄文化は、武士の文化から町人の文化への転換期ともいわれており、
庶民が文化をリードし始めた時代でした。
経済力を持った町人たちが自らの生活や感性を反映した文化を創り上げ、
その影響は後世にも及びました。
 徳川綱吉の政治

【徳川綱吉】1646~1709江戸幕府の5代将軍。朱子学を中心とする儒学を重んじ、孔子をまつるため湯島聖堂を建てた。
【朱子学】中国で、宋の時代に大成された儒学の一派。
【陽明学】儒学の一派。明の時代に王陽明が説いた、行動実践を重視する教え。
【生類憐れみの令】江戸時代に、徳川綱吉が出した極端な動物愛護令。
【新井白石】1657~1725江戸時代 中期に政治改革を行った儒学者。
【正徳の治】江戸時代、6代・7代将軍のもとで、新井白石が行った儒学にもとづく政治改革。

 

(1)徳川綱吉(1646年 - 1709年):
江戸幕府の第5代将軍で、在職期間は1680年から1709年までです。
綱吉の政治は、その特異な政策から「生類憐れみの令」などで知られていますが、
彼の時代の政治はさまざまな側面を持っています。

①生類憐れみの令:
綱吉の時代に最も有名な政策です。
1687年から1709年にかけて出された法令で、生き物に対する慈悲と保護を重視しました。
その中心は犬であり、当時は「犬公方(いぬくぼう)」としても呼ばれることがありました。
この政策は市民の生活に大きな影響を与え、批判も多くありました。

②儒教思想の推進:
綱吉は儒教、とりわけ朱子学を重視しました。
儒教思想を基盤にして徳政を行い、人々の道徳心を高めるよう努めました。
この一環として、湯島(現在の東京都文京区)に孔子廟を建設し、儒教の学問を推進しました。

③貨幣の改鋳:
綱吉の時代には大量の貨幣が発行されましたが、その品質が低下し、経済に悪影響を及ぼしました。
これは、政府の財政難を乗り越えるために一時的に富を得る手段として行われたものですが、
物価の高騰などの問題を引き起こしました。

④幕府の権力強化:
綱吉は幕府の権力強化を図り、幕政の改革を行いました。
彼は老中や側用人を通じて政治を行うことにより、将軍としての権威を維持しようとしました。

(2)評価:
綱吉の治世は、彼の生類憐れみの令の影響や経済政策の失敗などが
後世に様々な評価をもたらしています。
一部の政策は批判されることも多いですが、一方で文化の発展や思想の浸透により、
江戸時代の社会構造に影響を与えたことも確かです。
 [要点-享保の改革~寛政の改革]

(1)享保の改革(1716年 - 1745年頃):

享保の改革は、第8代将軍徳川吉宗(在職1716年 - 1745年)によって行われました。
吉宗は「米将軍」とも呼ばれ、財政の立て直しに力を入れました。

①享保の検地:
土地の生産力を正確に把握し、税収を増やすために検地を行いました。
②上米の制:
大名に対して米を幕府に献上させる制度を導入し、
その代わりに参勤交代の頻度を軽減しました。
これにより、幕府の財政は多少改善されました。

③公事方御定書:
吉宗は法律を成文化し、裁判を公正に行うための基準を定めました。
これにより、法の統一的な適用が可能となりました。

④倹約令:
奢侈品の使用を抑制し、倹約を奨励する政策を実施しました。

⑤目安箱の設置:
民衆の意見を政治に反映させるため、江戸城に目安箱を設置しました。
これは、民意を取り入れる試みとして評価されています。

(2)寛政の改革(1787年 - 1793年):
寛政の改革は、第11代将軍徳川家斉の下で老中松平定信(1759年 - 1829年)によって行われました。
定信は農村復興と道徳の復興を重視しました。

①囲い米の制:
諸大名や旗本に対して、米の備蓄を義務付け、飢饉に備える体制を整えました。

②帰農奨励:
都市に流入した農民の帰農を奨励し、農村の復興を図りました。

③社倉・義倉の設置:
農村での社会扶助制度として、社倉(地域の共同倉庫)や義倉(慈善倉庫)を設置しました。

④寛政異学の禁:
儒学の中の朱子学だけを公認し、他の異なる学派の学問を公的に禁じました。

⑤出版統制:
書物の出版を統制し、不穏な思想や批判的な内容の広がりを抑えようとしました。

(3)評価:
これらの改革は、幕府財政の立て直しや社会の安定を目指しましたが、
成果には限界があり、後にはさらなる改革が必要となりました。
 農村の変化・百姓一揆と打ちこわし

【小作人】江戸時代に増加した、土地を地主から借りて農業を営む農民。
【百姓一揆】江戸時代におこった、農民の集団的な反抗のこと。
【打ちこわし】江戸時代、生活に苦しむ都市の町人や農民が集団でおこした暴動のこと。
【傘(からかさ)連判状】江戸時代の百姓一揆の際、参加する農民の名前を円形に書き連ねたもの。
【天明の飢饉】1780年代に全国をおそった大飢饉。
【貨幣経済】貨幣を通じて行われる経済。
【問屋制家内工業】大商人などが原料や道具などを農民に貸し付けて生産させ、できた製品を買い取るというしくみ。
【工場制手工業】大商人などが農民らを労働者として工場に集め、分業や協業によって製品を生産するしくみ。

 

(1)経済:
①18世紀になると、木綿の原料となる綿、油の原料となる菜種、
染料となる藍(あい)や紅花などの商品作物の栽培が盛んになりました。

②これらの商品作物の栽培には干鰯などの肥料を購入することが必要であったので、
それまでの自給自足経済がくずれ貨幣経済が農村にも浸透しました。

③成功して他の農民の土地を手に入れて地主となる者がいる一方で、
土地を手放して小作人となる農民も多くなり、貧富の差が大きくなりました。

④また、このころ、手工業が各地の農村に広がっていきました。
最初は、商人が織機や材料を農家に貸し出し製品にする問屋制家内工業でしたが、
のちにたくさんの労働者が分業によって製品をつくる工場制手工業に変わっていきました。

 
 

(2)百姓一揆:
百姓一揆は農民たちが一致団結して行った反抗運動です。
彼らは主に重税や厳しい年貢の取り立てに対抗しました。
百姓一揆には様々な形態がありましたが、共通して権力に対する集団的な不満の表れでした。
一揆の参加者は地元の有力者や農民リーダーによって組織されることが多く、
主要な要求としては税の軽減、年貢の猶予、役人の解任などがありました。
江戸時代を通じて数多くの百姓一揆が発生し、時には藩を動かすほどの影響を与えることもありました。

(3)打ちこわし:
打ちこわしは主に都市部で発生した集団的な暴動を指します。
特に米の価格が急騰した際に多く見られました。
打ちこわしは、米問屋や酒蔵、商人の家を破壊するなど、物理的な攻撃を伴うことが特徴です。
この運動は、物価の高騰や不公平な商取引に対する民衆の怒りが直接的に噴出したものでした。
打ちこわしは、しばしば町人や日雇い労働者などが主体となって行われ、
彼らの間に広がる貧困と不満を表しています。

(4)背景と影響:
百姓一揆と打ちこわしは、社会的、経済的な不満が積もった結果として発生しました。
幕府や藩は、こうした反乱を鎮圧するだけでなく、改革を行わざるを得ない状況に追い込まれました。
このような圧力が、江戸時代後期の改革の動機ともなりました。
また、これらの運動は、江戸時代の社会がどのように構成され、
どのような問題を抱えていたかを理解するうえで重要な事象です。
このように、百姓一揆や打ちこわしは、江戸時代の社会不安や不満を示す重要な出来事でした。

 
 田沼の政治

【田沼意次】1719~88 18世紀後半の江戸幕府の老中。
【長崎貿易】江戸時代の鎖国中に、長崎を通じて行われた貿易。
相手国はオランダと清(中国)に限られていた。
【印旛沼】下総国(千葉県)利根川下流にある沼。
【天明の飢饉】1780年代に全国をおそった大飢饉。

 

①18世紀後半になると幕府の財政はいきづまりの状態になりました。
1772年に老中になった田沼意次は、商人の経済力を利用することによって、
幕府の財政を立て直す政策をとりました。

②これにより、商工業者が株仲間を結ぶことを奨励して、
これに特権を与えるかわりに税を取り立てました。
(株仲間を結んだ商人は営業を独占することで、大きな利益をあげることができた) 

③町人に出資させて印旛沼(千葉県)などの干拓を行い、新田を増やそうとしました。

④長崎貿易で金銀を輸入するため、銅や海産物の輸出を奨励しました。

⑤蝦夷地の開発をこころみました。

⑥しかし、一部の大商人と結びつき、わいろが横行して政治が乱れました。

⑦1783年、天明の飢饉がおこり、農村では百姓一揆が、都市では打ちこわしがおこり、
田沼は老中を失脚しました。
 寛政の改革

【松平定信】1758~1829 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫で、白川藩(福島県)藩主。
【寛政の改革】老中の松平定信が1787~93年に行った政治改革。
【朱子学】中国で、宋の時代に大成された儒学の一派。

 

(1)背景:
寛政の改革は、江戸時代後期の1787年から1793年にかけて行われた改革で、
老中松平定信によって主導されました。
当時、天明の大飢饉(1782-1788年)や、財政難、社会のモラル低下などの問題が深刻化しており、
それに対処する必要がありました。

(2)改革の主な内容:
①倹約令:
武士や町人に対して質素倹約を奨励し、贅沢を戒める政策を推進しました。
政府の無駄遣いを抑制し、幕府の財政を立て直すことを目的としました。

②財政改革:
農村復興を図るために、農地の開墾を奨励しました。
米価の安定を図り、米の取引を規制しました。
また、幕府の財源を安定させるために、商人や富裕層に課税しました。

③教育政策:
教育を重視し、寺子屋や藩校などでの道徳教育を推進しました。
儒教に基づく教育を強化し、民衆の道徳心を高めることを目指しました。

④社会秩序の維持:
社会の秩序を維持するために、幕府の法令を厳守させるよう努めました。
浮浪者や犯罪者に対する取り締まりを強化し、治安の維持を図りました。

(3)改革の影響と評価:
寛政の改革は幕府の財政再建や社会秩序の安定に一定の効果をもたらしましたが、
厳しすぎる倹約政策は一部から不満を招きました。
幕府内でも改革に対する反発があり、松平定信は1793年に失脚しました。
短期間のうちに終わったため、その効果は限定的であったとの評価もありますが、
長期的には社会の安定化に寄与したとされます。
 [要点-外国船の出現と天保の改革]

①1792年にロシアのラクスマンが根室に、
1804年にレザノフが長崎に来航して通商を求めたが幕府はこれを拒絶した。
ロシアを警戒した幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵に蝦夷地や樺太の調査を行わせた。
1808年、イギリスの軍艦がオランダ船をとらえるために長崎港に侵入するという
フェートン号事件が起こった。
1825年、幕府は異国船打払令を出した。蘭学者の高野長英と渡辺崋山は
これを批判して処罰された(蛮社の獄)。

②1830年代に天保の飢饉がおこり、大阪では、儒学者(陽明学)の大塩平八郎が大塩の乱を起こした。
幕領である大阪で奉行所のもとの役人が反乱を起こしたことは、幕府に大きな衝撃を与えた。
このような中で、1841年、老中の水野忠邦は天保の改革を行い、株仲間の解散などを行った。
水野忠邦は、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ると、異国船打払令をやめた。
 外国船打払令

【ラクスマン】1766~? 江戸時代 後期、根室(北海道)に来航したロシアの使節。
【大黒屋光太夫】1751~1828 江戸時代の伊勢国(三重県)の船頭。
【間宮林蔵】1775?~1844 江戸時代 後期の北方探検家。
【フェートン号事件】1808年、イギリスの軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎港に不法侵入し、 食料などを強奪した事件。
【外国船打払令(異国船打払令)】1825年に江戸幕府が出した、日本に接近する外国船を撃退することを命じた法令。
【蛮社の獄】1839年、江戸幕府が蘭学者に対して行った弾圧事件。
【水野忠邦】1794~1851 浜松藩(静岡県)藩主。老中となり、12代将軍徳川家慶の時代に天保の改革を行った。

 

(1)背景:
江戸時代、日本は鎖国体制を敷いており、外国との正式な交易は
限定された国と地域(オランダ、中国、朝鮮、琉球、アイヌとの交易)に限られていました。
この時代、特に19世紀に入ると、欧米諸国がアジアに進出し始め、
日本近海にも外国船がたびたび現れるようになりました。
日本沿岸に出没する外国船に対する対応が求められるようになり、
幕府はこれに対処するための法令を制定しました。

(2)外国船打払令(1825年):
外国船打払令は、1825年に江戸幕府によって出された命令です。
この命令は、友好国の船(オランダ、中国)以外の外国船が日本沿岸に接近した場合、
無条件で追い払うことを命じたものです。
外国船が見え次第、砲撃なども含めて、即座に追い払うことが各地の藩に命じられました。

①目的と狙い:
この法令の目的は、日本の沿岸防衛の強化と国内の秩序維持でした。
幕府は外国の侵略や影響の拡大を非常に恐れており、
鎖国体制を堅持することが重要と考えていました。
特に、西洋列強の動きに対して慎重な対応を取る必要があると判断されていたのです。

②その後の展開:
外国船打払令は、日本の位置を脅かす異国船に対抗するためのものですが、
欧米諸国との緊張を高める結果につながりました。

③政策の転換:
アヘン戦争(1839-1842年)の影響を受けて日本への圧力が強まる中、
幕府は1842年に「天保の薪水給与令」を出し、
漂着外国船への薪水や食料の供給を認める方針へと転換しました。

この政策の変化は、欧米諸国との対話を模索する流れの一部であり、
やがて幕末の開国へとつながっていくことになります。

(3)評価:
外国船打払令は、江戸時代の外交政策の一環として、
日本がいかにして国を守ろうとしたかを示す興味深い事例です。
また、その後の変化は、鎖国状態から開国へと移る転機を象徴しています。
 天保の改革

【天保の飢饉】1830年代に発生した大飢饉。
【天保の改革】老中の水野忠邦が1841~43年に行った政治改革。
【水野忠邦】1794~1851 浜松藩(静岡県)藩主。老中となり、12代将軍徳川家慶の時代に天保の改革を行った。
【大塩の乱】1837年、元大阪町奉行所の役人であった大塩平八郎が、天保の飢饉で苦しむ人々を救おうとしておこした反乱。

 

(1)背景:
天保の改革は、1830年代の日本が抱える深刻な社会問題や
財政難に対処するために行われた一連の改革です。
この時期、天保の飢饉(1833-1837年)や国内の経済的混乱、
さらに社会不安が高まり、幕府の統治が揺らいでいました。
水野忠邦が老中となり、その指導のもとで改革が行われました。

(2)改革の主な内容:
①倹約令の実施:
幕府や諸藩の財政を改善するために、質素倹約が奨励され、無駄遣いの抑制が図られました。
特に裕福な商人や大名に対しても贅沢を戒める政策が取られました。

②農村・経済改革:
農村復興を目指し、新田開発を奨励しました。
また、農民の生活を安定させるために、年貢の減免措置も行われました。
特産品の奨励や物価の安定を通じて、地域経済の強化を図りました。

③都市政策:
江戸への人口集中を緩和するため、農村への帰農を促しました。
地方から江戸に出てきた人の中には貧困層が多かったため、その社会問題の解決を目指しました。

④風俗・治安の取り締まり:
社会の道徳や秩序を立て直すため、町人や農民に対する規制が強化されました。
芝居小屋や娯楽施設に対する取締りを強化し、風紀の立て直しを試みました。

⑤商業政策:
米価の安定を図るための政策が展開されましたが、多くの反発を招きました。
江戸の市場における流通ルールの見直しが行われ、幕府直轄の流通業者を指定するなどしました。

(3)結果と影響:
①天保の改革は、一部の政策が効果を上げたものの、多くの反発や抵抗に直面しました。
水野忠邦の急進的な政策は商人や特権階級、大名たちの反発を招き、
その結果、改革は必ずしも成功しなかったと評価されています。

②改革の失敗により水野忠邦は1843年に失脚し、天保の改革は短期間で終わることとなりました。
天保の改革は、幕府の権威を立て直し、社会の安定を図る試みでしたが、
実際には複雑な社会問題への対応には限界がありました。
 [要点-新しい学問と化政文化]

①本居宣長は古典を研究して、古事記伝を著し、国学を大成した。
蘭学者の前野良沢と杉田玄白はオランダの人体解剖書を翻訳して解体新書を著した。
伊能忠敬は正確な日本地図をつくった。
町人や農民の子供たちは寺子屋で読み・書き・そろばんを習った。

②19世紀はじめに江戸を中心として化政文化がさかえた。
浮世絵の技術も進み、錦絵という多色刷りの版画も作られた。
風景画では葛飾北斎や歌川(安藤)広重、美人画では喜多川歌麿が有名である。
小説では「東海道中膝栗毛」の十返舎一九、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴、
俳諧では与謝蕪村や小林一茶がいる。
また、政治を風刺した狂歌や川柳が好まれた。
 新しい学問

【国学】日本の古典を研究し、日本古来の精神を明らかにしようとする学問。
【蘭学】オランダ語を介して西洋の近代的な技術や文化を学ぶ学問。
【本居宣長】1730~1801 江戸時代の国学者。
【解体新書】江戸時代中期に、医師の杉田玄白や前野良沢らが出版した人体解剖書。
【伊能忠敬】1745~1818 江戸時代の地理学者。

 

(1)国学:
国学は、江戸時代中期から後期にかけて発展した学問で、
日本古来の文化や思想を再評価しようとする動きです。
国学者たちは、日本の古代の文献や伝統に立ち返り、日本の精神や文化を再発見しようとしました。
国学の代表的な学者には、本居宣長がいます。
彼は『古事記伝』という書物を著し、『古事記』を詳細に研究しました。
この流れは、後の明治維新における国家のアイデンティティの確立にも影響を与えました。

(2)蘭学:
蘭学は、江戸時代にオランダを通じて西洋の科学や技術を学ぶことを指します。
鎖国体制の中で唯一の窓口であった長崎の出島を通じてオランダから伝わる知識を取り入れ、
西洋の医学、天文学、地理学などが日本に紹介されました。
蘭学の発展により、特に医療や蘇生法などの分野で日本の技術が大きく進歩しました。
杉田玄白や前野良沢らが翻訳した『解体新書』はその代表的な成果です。

(3)評価:
国学は日本の古来の文化を探求し、
蘭学は西洋の知識を取り入れるという形で、江戸時代の文化や社会に影響を与えました。

 
 化政文化
 
【化政文化】19世紀初めの文化・文政期を中心に天保の改革のころまで、江戸を中心に栄えた文化。
【川柳】18世紀の中ごろに流行した短い詩。
【錦絵】18世紀後平に、浮世絵が発展して生まれた多色刷りの版画。

 

(1)化政文化:
主に19世紀初頭の文化文政期(1804年~1830年)を中心に栄えた庶民文化を指します。
この時期は、江戸をはじめとする都市部で町人文化が花開いた時代です。

①文学:
洒落本: ユーモアや洒落を中心にした短編小説が流行しました。
山東京伝などが有名です。
黄表紙: 漫画の一種で、大衆に人気でした。
印刷技術が発展したことで、多くの人に読まれました。
川柳: 庶民の感情や日常を面白おかしく表現した五七五の形式の詩が流行しました。

②絵画・美術:
浮世絵: 風俗画や風景画などが描かれ、歌川広重や葛飾北斎らが名作を残しました。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』などが特に有名です。
錦絵: より色鮮やかに表現された浮世絵の一種で、技術の進化によって多色刷りが可能になりました。

③演劇:
歌舞伎: 庶民の娯楽として人気を集め、華やかな衣装や舞台装置で観客を魅了しました。
この時期の役者や舞台も大変洗練されたものになりました。

④その他の文化:
寄席: 話芸を楽しむ場として、落語や講談が行われ、多くの人々が集まりました。
料理・食文化: この時期に寿司や天ぷら、蕎麦といった料理が江戸の庶民の間で人気を博しました。

(2)評価:
化政文化は、江戸の町人を中心とする層が自らの生活を楽しむ中で育まれました。
この時代には、経済の発展により文化の担い手が武士から町人に移行し、
都市生活の中で庶民の趣味や娯楽が盛んになったことが背景にあります。
 [要点-幕末~明治時代]
 
 年代  おもなできごと
 1853  アメリカのペリーの4隻の黒船が浦賀沖に現れる
 1854  日米和親条約:下田と函館を開く
 1858  日米修好通商条約:治外法権を認め、関税自主権をもたない不平等条約
→ 国内経済の混乱 → 尊皇攘夷運動 → 安政の大獄:大老井伊直弼
 1866  薩長同盟:坂本龍馬の仲立ちで薩摩藩と長州藩が倒幕で協力
 1867  大政奉還:15代将軍徳川慶喜 → 王政復古の大号令
 1868  鳥羽伏見の戦い → 戊辰戦争
 1868(明治1)  (明治元年) 明治維新、五箇条の御誓文
 1869(明治2)  版籍奉還:土地(版)と人民(籍)を天皇に返す
 1871(明治4)  廃藩置県:藩を廃止して県を置く
岩倉視察団を欧米に派遣
 1872(明治5)  学制公布:小学校教育を義務づける
 1873(明治6)  徴兵令:20歳以上の男子に兵役の義務を課す
地租改正:地券を発行し、地価の3%を現金で納めさせる
 1874(明治7)  民撰議員設立建白書:征韓論に破れた板垣退助が提出
 1875(明治8)  千島・樺太交換条約
 1877(明治10)  西南戦争:西郷隆盛など薩摩の士族の反乱
 1881(明治14)  国会開設の詔勅 → 板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党
自由民権運動がさかんになる
 1885(明治18)  内閣制度:初代の内閣総理大臣は伊藤博文
 1889(明治22)  大日本帝国憲法を発布
 1890(明治23)  第一回帝国議会:貴族院と衆議院
(選挙権は25歳以上の男子で国税15円以上)
(このころ軽工業を中心とする産業革命)
 1890(明治23)  教育勅語
 1894(明治27)  治外法権の撤廃に成功:イギリスがまず応じる、外務大臣は陸奥宗光
 1894(明治27)  日清戦争:甲午農民戦争がきっかけ
 1895(明治28)  下関条約 → 三国干渉:ロシア、フランス、ドイツ、遼東半島を返還
 1900(明治33)  義和団事件
 1902(明治35)  日英同盟:ロシアに対抗するためにイギリスと同盟
 1904(明治37)  日露戦争
 1905(明治38)  ポーツマス条約:米国が仲裁、全権は小村寿太郎 → 日比谷焼き討ち事件
(このころ重工業を中心とする産業革命)
 1910(明治43)  韓国併合
 1911(明治44)  中国で辛亥革命:指導者は三民主義の孫文 → 中華民国が成立

①1853年、ペリーの率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀の沖に現れ、日本に開国をせまった。
その翌年、日米和親条約を結んで、下田と函館の2港を開港した。
大老の井伊直弼は、朝廷の許可が得られないまま、1858年に日米修好通商条約をハリスとの間に結んだ。
この条約は、裁判では領事裁判権を認め、貿易では関税自主権が日本に認められない不平等なものであった。

②開国によって経済が混乱し、幕府や外国に対する反感が強まり、尊王攘夷運動がおこった。
井伊直弼は、これを弾圧し安政の大獄を行ったが、桜田門外で暗殺された。
薩摩藩が生麦事件をおこすと、イギリスは鹿児島を攻撃した。
また、長州藩は外国船に砲撃を加えて攘夷を実行したが、四国連合艦隊は下関を攻撃し砲台を占領した。

③薩摩藩と長州藩は、坂本龍馬のなかだちで薩長同盟を結んだ。
1867年、薩摩藩と長州藩が、武力で幕府をたおす計画をすすめているとき、
15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返すと申し出た。
これを大政奉還という。
これに対して、朝廷は王政復古の大号令を発した。
1868年、鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まり、旧幕府軍をうち破った。
 ペリーの来航と不平等条約

【ペリー】1794~1858 アメリ力東インド艦隊司令長官で、アメリカ使節。
【黒船】1853年にペリーが浦賀(神奈川県)に来航した際に乗っていた軍艦に対する、日本でのよび名。
【日米和親条約】1854年、江戸幕府がアメリカ合衆国の使節ペリーとの間に結んだ条約。
【日米修好通商条約】1858年、江戸幕府の大老・井伊直弼がアメリ力の総領事ハリスとの間に結んだ条約。
【領事裁判権(治外法権)】外国人が罪を犯しても、その国の法律では裁かれず、本国の法律で裁判を受ける権利のこと。
【関税自主権】国家が輸人品に対して自由に関税をかけることができる権利のこと。

 

 

(1)ペリーの来航:
①背景:
19世紀半ば、欧米諸国が貿易拡大と勢力拡大を目指してアジアに進出していました。
特にアメリカは、日本が鎖国政策を続ける中で太平洋航路の中継地点として日本に関心を持っていました。

②来航:
1853年、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が、
蒸気船を含む4隻の「黒船」を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航しました。
ペリーは、日本と通商条約を結ぶことを求めました。
この来航により、日本はその鎖国体制を続けることが困難になりました。

③開国:
翌1854年、再び来航したペリーとの間で、日本は「日米和親条約」を締結しました。
この条約で下田と函館が開港され、アメリカの船に補給のための寄港を認めることになりました。

(2)不平等条約:
①日米修好通商条約:
1858年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと江戸幕府との間で
「日米修好通商条約」が締結されました。
この条約は、日本にとって不平等な内容を持ち、次のような特徴がありました。

②関税自主権の欠如:
日本は輸出入にかかる関税を自らの判断で決定する権利(関税自主権)を持たず、
アメリカと協議が必要とされました。

③領事裁判権:
アメリカ国民が日本で犯罪を犯した場合、
日本ではなくアメリカの法律で裁かれるという内容でした(治外法権)。

④その後の影響:
この後、日本はオランダ、イギリス、ロシア、フランスとも類似した条約を結びました。
これらの不平等条約は、日本国内に対して幕府への批判を強め、後の明治維新への一因となりました。

(3)評価:
ペリーの来航と不平等条約の締結は、江戸幕府の権威を揺るがし、
日本が近代化への道を歩み始める契機となりました。
その後、明治政府は、これらの不平等条約の改正を重要な課題とし、
国家の独立と近代化を進めていくことになります。

 開国の影響

 

①開国後の最大の貿易相手国はイギリス、
輸出品は生糸と茶で、輸入品は毛織物・綿織物・武器・艦船でした。

②貿易が始まると、日本の経済は大きな影響を受けました。
関税自主権がなかったために、イギリスの安価な機械製の綿織物が大量に輸入され、
国内の綿織物業は成り立たなくなりました。

③また、最大の輸出品は生糸で、輸出額の8割以上を占めていましたが、
このために国内の生糸が品不足となり、各地の絹織物業が圧迫されました。

④さらに、金と銀の交換比率が日本と外国で違っていたため、
外国商人は日本に銀を持ち込み金貨を持ち出しました。
これに対して幕府は金貨の質を落としたが、
それは国内の物価の急激な上昇をもたらし、国内経済は混乱しました。
 安政の大獄・尊王攘夷運動

【尊王攘夷運動】天皇を敬い(尊皇)、外国勢力を追い払おう(攘夷)とする反幕府運動。
【安政の大獄】1858~59年、大老の井伊直弼が、自分の政治に反対する人々を弾圧した事件。
【吉田松陰】1830~59 長州藩 萩(山口県)の藩士。
【桜田門外の変】1860年、幕府の大老であった井伊直弼が暗殺された事件。
【生麦事件】1862年、薩摩藩(鹿児島県)の藩士が横浜付近の生麦付でイギリス人を殺傷した事件。
【薩英戦争】1863年、前年の生麦事件の報復として、イギリス艦隊が薩摩藩(鹿児島県)と交戦した事件。

 

(1)安政の大獄:
①安政の大獄は、1858年から1859年にかけて江戸幕府が行った大規模な弾圧事件です。
当時、日本は開国をめぐって内外で緊張が高まっていました。
特に、幕府の開国政策に反対する勢力が強まっていたのです。

②井伊直弼が大老に就任し、幕府の権威を確立するために開国反対派を一斉に取り締まりました。
彼は、朝廷や公家、尊王派の政治家・学者を中心に、多くの人々を処刑や謹慎に追い込みました。
これによって幕府に対する不満が一層高まり、後の反幕府運動に繋がります。

(2)尊王攘夷運動:
尊王攘夷運動は、幕末に起こった政治的・思想的な運動で、
主に2つの要素から成り立っています。

①尊王思想:
天皇を尊び、国家の中心に据えるべきだという考え。
幕末の政治状況の中で、幕府よりも天皇の権威を重視しようとする動きがありました。

②攘夷思想:
外国(特に西洋列強)を排斥し、日本の伝統と独立を守るべきだという考え。
ペリー来航以降、外国からの圧力が増加し、それに対する反発が攘夷運動に結びつきました。

③幕府の開国政策に対して反発する人々が、尊王攘夷の旗印のもとに団結していきました。
この運動は、やがて倒幕運動へと発展し、明治維新の一因となります。

(3)評価:
これらの動きは、日本の社会構造や政治体制を大きく変えるきっかけとなり、
近代国家への道筋を形成する要因の一つとなりました。
 倒幕

【薩長同盟】1866年、坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩との間で結ばれた同盟。
【世直し】幕末から明治時代初めにかけてさかんになった、貧しい農民たちを中心に、世の中が変化することを望む民衆の風潮。
【ええじゃないか】1867年の秋から冬にかけて、東海道・近畿・四国地方に広がった集団乱舞。
【大政奉還】1867年、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したこと。
【王政復古の大号令】1867年、朝廷が発表した、天皇中心の政治を行うという宣言。
【戊辰戦争】1868年に鳥羽・伏見の戦いから始まった、新政府軍と旧幕府との戦い。
【五稜郭】函館市にあるヨーロッパ風の星型城塞。

 

①外国艦隊の砲撃を受け、完全な敗北を経験した長州藩と薩摩藩は、
攘夷が不可能なことを身をもって悟りました。

②さらに、この強力な欧米列強の植民地になることをまぬかれ独立を保っていくためには、
幕府を倒して強い統一国家を作るしかないという結論に達しました。

③1866年に、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲立ちで、薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結び、
薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通、長州藩の木戸孝允と高杉晋作を中心に倒幕へとむかいました。

④1866年、幕府は第二次長州征伐を行ったが各地で破れました。
このころ、全国で世直しを期待して一揆が起こり、
1867年には、「ええじゃないか」といって人々が熱狂するさわぎが各地で流行しました。

⑤1867年、薩摩藩と長州藩が武力で幕府を倒す計画を進めているとき、
15代将軍の徳川慶喜は、政権を天皇に返すことを申し出た。
これが大政奉還です。

⑥慶喜は、天皇のもとに大名の会議を作り、
自分は議長として政治の実権を持ち続けようと考えていました。
これに対し、朝廷は王政復古の大号令を発表して新政府の成立を宣言し、幕府の領地を取り上げ、
天皇が直接政治を行うことを決めました。

⑦これを不満とした旧幕府軍は、1868年1月、新政府と戦争を起こしましたが、
鳥羽・伏見の戦いで敗れました。
新政府は、軍を東にすすめ江戸城を明け渡させました。

⑧ついで、会津若松など東北地方で戦い、
最後に北海道函館の五稜郭にたてこもった幕府軍を打ち破りました。

⑨鳥羽・伏見から函館にいたるこの戦いを戊辰戦争といいます。
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