社会2年 日本の歴史(室町時代)

 室町
 [要点-室町時代]
 
 年代  おもなできごと
 1333年  鎌倉幕府の滅亡
 1334年  後醍醐天皇による建武の新政が始まる
足利尊氏がそむく → 後醍醐天皇は吉野に逃れる(南朝)
 1338年  足利尊氏は征夷大将軍になり、室町幕府を開く
南北朝時代の争乱:この時期に守護は守護大名に成長
 1392年  足利義満が南北朝を合一
 1404年  勘合貿易(勘合を使用。中国の明から倭寇の取り締まりを求められた)
 1428年  正長の土一揆(近江の馬借や京都の農民が徳政令を要求)
 1467年  応仁の乱(11年間も京都での争いが続いた→戦国時代の幕開け)
 1485年  山城国一揆(守護大名の畠山氏を追い出して8年間自治を行った)
 1488年  加賀の一向一揆(一向宗の信徒が守護を攻め滅ぼし約100年間自治を行う)

①後醍醐天皇は足利尊氏などの協力を得て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼし 、天皇中心の政治を始めた。
これを建武の新政という。

②しかし、足利尊氏が反旗を翻して、後醍醐天皇は吉野に逃れた。
足利尊氏は京都に新しい天皇(北朝)をたて、1338年に室町幕府を開いた。
南北朝の争乱の時代に、守護は次第にその国を支配下において守護大名に成長した。

③14世紀の中ごろ、足利義満が第3代将軍となり、1392年に南北朝の合一をはかった。

④このころ、元にかわって明が中国を支配するようになった。

⑤足利義満は中国の求めに応じて、当時中国の沿岸部を荒し回っていた倭寇と呼ばれる海賊を取り締まることを約束した。
その見返りとして勘合貿易(日明貿易)を認められた。
海賊と区別するために勘合という合い札が使われた。
 建武の新政・南北朝の動乱

【後醍醐天皇】1288~1339 鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行った。
【建武の新政】鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が行った天皇中心の政治。
【足利尊氏】1305~58 室町幕府を開いた初代将軍。

 

①1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
滅亡の原因の第一:
御家人の窮乏と不満です。
所領の分割相続と貨幣経済の進展によって、御家人は次第に窮乏していきました。

②また、元寇のとき恩賞がほとんどもらえなかったことで
幕府への不満が広がりました(御恩と奉公における重大な契約違反)。

③幕府は永仁の徳政令を出したが、その効果はうすく、
かえって御家人の不満と不信をまねく結果に終わりました。

④このような動揺をおさえるため北条氏は専制政治を強化しましたが、
それはますます御家人の不満をつのらせる結果になったのです。

⑤滅亡の原因の第二:
鎌倉中期以降の経済発展によって社会が大きく変動し、
これにともなって、悪党とよばれる新しい武士階層が出てきたことです。
農村経済の発達とそれにともなう商業の発達によって、
経済力を蓄えた御家人ではない新たな武士が成長していきました。

⑥彼らの中には、荘園の年貢を奪うなど幕府の秩序を乱す者もおり、悪党とよばれました。
悪党はやがて各地に広がっていき、百姓の抵抗運動とともに荘園領主や幕府を悩ますようになりました。

⑦滅亡の原因の第三:
後醍醐天皇です。
幕府の衰えをみて、後醍醐天皇は幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうと考え、
楠木正成などの悪党とよばれた武士たちに呼びかけて兵をあげた。

⑧これに対して幕府は、大軍を京都にのぼらせた。
しかし、有力な御家人の足利尊氏 は幕府にそむいて、1333年、京都の六波羅探題を攻め落とし、
新田義貞も鎌倉に攻め込んで、鎌倉幕府をほろぼしました。

  

⑨後醍醐天皇は天皇中心の政治をめざしました。
この政治のことを建武の新政という。
しかし、新政の大事な役には公家が多くあてられ、恩賞に不満を持つ武士も少なくなかった。

⑩また税の軽減は行われず、
戦乱による苦しみを考えずに宮殿の造営を考えるような政治の失敗も続きました。

⑪こうして、しだいに公家中心の新政に不満をもつ者が多くなっていきました。
こうした動きを見た足利尊氏は、新政に対抗して兵をあげ、京都で新しい天皇をたてました。
これを北朝といいます。

⑫後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れましたが、これを南朝といいます。

⑬足利尊氏は1338年に、北朝によって征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きましたが、
幕府の支配力は弱く、このあと約60年にわたって南北朝の動乱の時代が続くことになりました。

⑭この時代、相続をめぐるそれぞれの武士一族内部の争いが激しくなっていきました。
一方が北朝方につくと、他方が南朝方について戦うという形で、戦乱を拡大しました。
また、幕府内部も2つに分かれて武力で争い、内乱は続きました。

⑮南北朝の動乱のなかで足利尊氏は、
味方になってもらいたい守護に荘園の年貢の半分を徴収する権限を与えました。
これをきっかけに、守護は国内の武士を家来にして、その国全体を支配する守護大名に成長していきました。

⑯14世紀末になって、ようやく各地での争いも少なくなり、
1392年、三代将軍足利義満が南北朝を合一させて、約60年続いた南北朝の争乱は終わりました。
 室町幕府の組織

【室町幕府】足利尊氏が開いた幕府。
【鎌倉府】関東地方を支配するために鎌倉におかれた機関。
【足利義満】1358~1408 室町幕府3代将軍。

 

①管領は将軍を補佐する職で、侍所(軍事・警察・裁判)や政所(財政)などを統括し、
諸国の守護に将軍の命令を伝達した。

②管領には有力な守護大名の細川、斯波、畠山が交代で任命された。
鎌倉府は足利尊氏が幕府の基盤であった関東を重視して、その子基氏に東国の支配を任せた。

③三代将軍足利義満は、京都の室町に花の御所とよばれる大邸宅を建てて政治を行った。
足利氏の幕府を室町幕府とよぶのはこの室町という地名に由来している。
 勘合貿易
                                  
【勘合貿易】室町幕府が始めた明との貿易。
【明】元の後に建国された漢民族の王朝。
【倭寇】13~16世紀に、おもに朝鮮半島や中国の沿岸で海賊行為をはたらいた人々。

   勘合札
    

①勘合貿易は、日本の室町時代に行われた貿易制度の一つで、
中国の明(みん)王朝との間で行われた交渉貿易です。
この貿易の特徴は、明王朝が発行する「勘合符(かんごうふ)」という許可証を使って行われたことです。
勘合符は、船が正式な貿易許可を得ていることを証明するもので、
日本の使節や商人が中国に渡航する際に必要とされました。

②この貿易は、室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の時代に始まりました。
義満は、政治的および経済的な利益を得るために明との関係を重視し、
1401年に最初の正式な使節を明に派遣しました。
この外交関係を通じて、勘合貿易が開始されました。

③勘合貿易では、主に日本からは金や銀、硫黄、刀剣などが輸出され、
一方で明からは絹織物や銅銭、陶磁器などが輸入されました。
この貿易は、日本にとって重要な経済活動であり、また文化的な交流の手段ともなりました。

④しかし、勘合貿易は16世紀中頃になると、
中国の国内情勢の変化や日本国内の争乱(例えば、応仁の乱)などの影響で次第に衰退し、
最終的には停止しました。
 朝鮮・琉球・蝦夷地

【朝鮮国】1392年、李成桂が高麗をほろぼして建国した国。
【琉球王国】15世紀前半に、尚氏が沖縄島を統一して建国した王国。
【アイヌ民族】古くから北海道地方に暮らす民族。

 

①朝鮮半島では倭寇を撃退して名声をあげた李成桂が、高麗を倒して朝鮮(朝鮮国)を建国した。
朝鮮語を書き表すハングルという文字がつくられた。

②沖縄では、15世紀はじめにが琉球王国を建てて首都の首里に首里城を築き、
明・日本・朝鮮・東南アジア各地に進出して中継貿易を行った。

③蝦夷地(北海道)では、アイヌ民族が古くから狩猟・漁業や交易を行っていたが、
本州の和人の進出に圧迫され、やがて大きな反乱をおこした。
 商工業の発達

【明銭】明から輸入された貨幣。
【馬借】鎌倉時代中期から戦国時代に、馬の背に荷物をのせて運んだ運送業者。
【問丸】鎌倉時代に、港町に居住し、おもに船を用いて品物の保管・運送を行った業者。
【土倉】鎌倉・室町時代に、高利で金を貸した業者。
【座】鎌倉・室町時代の商人や手工業者の同業組合。

 

①室町時代、商業もさかんになり、交通の要地では問丸(問)(港の運送業・倉庫業者)、
馬借(馬の背に荷物を積んで荷物を運ぶ者)、車借(馬や牛に荷車をひかせる者)などの運送業者が活躍しました。

②商工業が盛んになり、また勘合貿易で大量の銅銭(明銭)が輸入されたことにより、
貨幣が一般に流通するようになりました。
(例えば、農民が米などを値段が高いときに市で売って貨幣に替えて、荘園の年貢を貨幣で支払うことも多くなった) 

③これにともなって、金貸し業も盛んになり、土倉とよばれた質屋のほか、酒屋や寺院も金貸しを経営しました。

④商人や手工業者は、同業者ごとに座とよばれる団体を作り、
公家や寺社に営業税を納めるかわりに、営業を独占する権利を認めてもらいました。
たとえば、定期市(室町時代には月に6回開かれるようになった)は、
交通の要地にあって人が多く集まる寺社の門前で開かれることが多かったですが、
その寺社の認める座の商人のみが営業を行うことが許されました。

⑤京都で自治組織をつくった裕福な商工業者を町衆といいます。
 農業の発達
 
 

①鎌倉時代後期から室町時代にかけて、
肥料の普及、水車を使った灌漑(かんがい)、牛馬を使った耕作などによって農業の生産性が向上しました。

②麻や桑、藍、茶の栽培が始まり、16世紀(室町末期~戦国時代)には綿などの商品作物の栽培も始まりました。

③手工業では、京都の西陣や博多の絹織物、刀や農具をつくる鍛冶・鋳物業がさかんになりました。
 農村の自治:惣

【惣】南北朝の動乱期に成長した農民の自治組織。
【寄合】惣の村民の会議。

 

①室町時代における「惣(そう)」と「寄り合い」は、
日本の中世社会の農村や地域共同体における自律的な組織や制度を示す用語です。
この時期、日本の農村では、村落共同体が成長し、
農民たちが自らの生活を守るためにさまざまな方法で協力し合うようになりました。

②惣(そう):
「惣」とは、村や地域の共同体を指す言葉で、農村社会を支える基本的な単位でした。
惣の構成員である農民たちは、自分たちで自治的な運営を行い、
共同で農作業や水路の管理、祭りの運営などを行いました。
また、領主に対しても団結して交渉を行うことがあり、
納税や年貢の負担を調整する際に協力することもありました。

惣は、農民たちが自らの生活を守り、自分たちの権利を主張する場であり、
必要に応じて反乱や一揆を起こすこともありました。
このように、室町時代の惣は、農村社会の中で重要な役割を果たしました。

③寄り合い:
「寄り合い」とは、村や地域社会の問題や運営について話し合うために、
村の有力者や代表者たちが集まる会合のことを指します。
寄り合いでは、村の決まり事や共同作業の予定、紛争の解決方法などが話し合われました。

寄り合いは、村の統制を維持し、農民たちが自らの意見を述べ、
問題を解決する場として機能しました。
これにより、地域社会が協力し合って安定した運営を行うことができたのです。

④惣と寄り合いは、室町時代の農村における自治的な制度として、
農民たちが自らの生活環境を守り、地域の秩序を維持する上で重要な役割を果たしました。
 [要点-民衆の成長]
 
【惣】南北朝の動乱期に成長した農民の自治組織。
【座】鎌倉・室町時代の商人や手工業者の同業組合。
【土倉】鎌倉・室町時代に、高利で金を貸した業者。

①農村では惣という自治組織が発達した。

②商工業者は座という同業者の組合を作った。

③土倉と呼ばれた質屋や酒屋が金貸し業を営んだ。

④運送業も発達し、港町には、倉庫をかまえた問が、陸上では馬借と呼ばれる運送業者が活躍した。

⑤1428年近江の馬借や京都の農民が京都に入り、幕府に徳政令を出すことを要求して寺院や土倉を襲った。
この事件を正長の土一揆という。
 土一揆

【一揆】支配者の圧政や社会の混乱などに対して、農民、信徒らが一致団結して起こした集団行動のこと。
【土一揆】年貢の軽減、徳政令の要求、不正をはたらく役人の免職、労役の軽減などを求めて、
農民が一致団結して守護大名や荘園領主に武力で対抗すること。
【正長の土一揆】1428年、近江(滋賀県)の馬借の蜂起をきっかけにおこった土一揆。
【徳政令】借金を帳消しにすることを命じる法令のこと。

 

①室町時代の「土一揆(つちいっき)」:
日本の中世に発生した農民たちによる一揆であり、
主に借金の帳消し(徳政)や年貢の軽減を求めて行われました。
特に経済的に困窮した農民が主体となり、
武力を用いて自らの要求を領主や権力者に認めさせようとしました。

②背景:
室町時代は、社会不安や経済的な問題が多く、
特に戦乱(南北朝の争い、応仁の乱など)が頻発し、農村の経済に大きな影響を与えていました。
戦乱や災害によって農作物が被害を受けたり、租税の負担が重くなったりした結果、
農民たちは経済的に追い詰められていきました。
そのため、借金を抱える農民が増加し、これが一揆の原因となりました。

③特徴と経過:
「土一揆」は、農民たちが集まり、下級武士や商人、時には都市民も加わり、
一団となって行動を起こすものでした。
一揆の要求としては、借金の帳消しを求める「徳政一揆」が代表的で、
これにより債務の削減や免除を求めました。

有名な例として、1441年の「嘉吉の徳政一揆」があります。
これは、将軍足利義教(あしかがよしのり)の暗殺(嘉吉の乱)を機に、
京都の民衆や農民が大量に集結して徳政令を要求した一揆です。
最終的にこの要求は認められ、一時的に徳政令が発布されました。

④影響:
土一揆は、室町時代の日本における社会的な緊張や経済的な問題を反映しており、
農民たちが自らの生活を守るために団結し、時には武力を行使してでも要求を実現しようとする姿勢が見られます。
この一連の活動は、後の時代に続く地域社会の力の象徴とも言えます。
また、こうした一揆の存在は、統治者に農民層の不満や経済状況を意識させ、政策の見直しを迫る契機となりました。

 
 [要点-応仁の乱と戦国大名]

①1467年に起こった応仁の乱は11年間続き約100年間続く戦国時代の幕開けとなった。

②1485年に山城国一揆がおこった。

③1488年には加賀の一向一揆がおこり、守護を攻め滅ぼして約100年間自治を続けた。

④守護大名の多くが下剋上によって家臣にたおされ戦国大名が生まれた。

⑤戦国大名は領国統治のために分国法という法律を制定した。
 応仁の乱・国一揆・一向一揆

【応仁の乱】1467~77 京都を中心に、11年間にわたって続いた戦乱。
【足利義政】436~90 室町幕府8代将軍。義政の跡継ぎをめぐって応仁の乱がおきた。
【戦国大名】戦国時代に台頭してきた大名。
【下剋上】実力のある下の身分の者が、上の身分の者にうちかつ社会の風潮。
【国一揆】土着の有力な武士である国人と農民らが、守護大名らの支配に対抗して結んだ一揆。
【山城国一揆】1485年、山城国(京都府)の南部でおきた一揆。
【一向一揆】浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた武士や農民たちがおこした一揆。

 

(1)応仁の乱:
①発生時期: 1467年から1477年
応仁の乱は、室町時代中期に京都を中心に発生した内乱で、
将軍の後継問題や有力守護大名の対立が原因となりました。
細川勝元(ほそかわ かつもと)と山名持豊(やまな もちとよ)の両陣営が東軍・西軍に分かれ、
10年以上にわたり戦闘を繰り広げました。

②影響:
中央政権である室町幕府の権威が大きく低下しました。
戦乱が全国に波及し、各地で戦国大名が自立する契機となりました。
京都の都市が荒廃し、文化・経済にも大きな影響を与えました。

(2)国一揆(くにいっき):
①特徴:
国一揆とは、特定の国(地域)で発生した有力者や農民たちによる集団行動を指します。
地方の武士や農民たちが団結し、自分たちの要求を訴えたり、領主権力に対抗することが特徴です。

②有名な例:
加賀の一向一揆の前身:加賀国の国人一揆のように、地域での自治を目指す運動がありました。

③影響:
国一揆は、農民や地方武士が自らの利益を守るために団結し、地域の政治や経済に影響を与えるものでした。
その結果、中央の権力から独立した地域権力が発生することがありました。

(3)一向一揆(いっこういっき):
①特徴:
一向一揆は、浄土真宗(一向宗)の門徒たちが、宗教的結束を基に起こした一揆です。
農民や町人が中心となり、時には武士も加わり、権力者に対抗しました。

②有名な例:
加賀一向一揆(1488年):加賀国(現在の石川県)で、
浄土真宗の門徒たちが一揆を起こし、守護大名を追放し、その後約100年間、加賀の国を自治的に支配しました。

③影響:
一向一揆は、宗教的結束を背景に強い団結力を持ち、地域に一定の影響力を持ちました。
この運動は、戦国時代の大名たちにとって頭痛の種であり、
一部の地域では、中央権力の影響が及ばなくなるほどの影響を与えました。
 戦国時代

【下剋上】実力のある下の身分の者が、上の身分の者にうちかつ社会の風潮。
【分国法】戦国大名が領国を支配するために独自に定めた法令。
【城下町】戦国人名が、城を中心に家臣、商工業者を集めて住まわせ形成された計画的につくられた都市。

 

①応仁の乱以降、実力のある者が力を伸ばして、上の身分の者に打ち勝つ下剋上の風潮が広がって、
守護大名の地位を奪って実権を握る戦国大名が各地に登場した。

②戦国大名は、領国支配のための分国法という独自の法律を作った。
また、武士や商工業者を集めて
城下町を作った。
 [要点-室町時代の文化]

①室町時代の文化の特色は、公家と武家の文化がとけあったことと、
中国から伝わった禅宗の影響を受けていることです。

②足利義満は京都の北山に金閣を建て、足利義政は応仁の乱後、東山に銀閣を建てました。
義政の時代の文化を東山文化といいます。
銀閣は書院造という建築様式に特色があります。

③雪舟は水墨画を、また、観阿弥・世阿弥は能を大成しました。
能のあいまに演じられたものに狂言があります。

④民衆の間でも「浦島太郎」のような御伽草子と呼ばれる絵本などが作られました。
和歌から生まれた連歌は、公家の間でも村の寄り合いでも盛んに行われました。
 室町時代の文化-北山文化と東山文化

【北山文化】15世紀初めのころの文化。足利義満が京都の北山に建てた金閣に代表されるためこのようによばれる。
【東山文化】15世紀後半の文化。足利義政が京都の東山に建てた銀閣に代表されるためこのようによばれる。
【金閣】足利義満がつくった京都の北山の山荘(北山殿)に建てた3層の建物。
【銀閣】足利義政がつくった京都の東山の山荘に建てた2層の建物。
【書院造り】室町時代に成立した住宅建築様式。

 

①三代将軍の足利義満が京都の北山に建てた別荘で、
金箔を用いた豪華絢爛な寝殿造になっている建築物は
金閣です。
義満の時代の文化を北山文化といいます。

②八代将軍の足利義政は京都の東山に東山山荘ともよばれる銀閣を建てました。
銀閣に見られる書院造は、住宅を障子などで間仕切りして数室に分けて畳を敷き、
明障子や床の間などを持っているところに特徴があります。

③書院造は、今日の住居のもとになっているといわれます。
この義政の時代の、公家と武家の文化がとけあい、禅宗の影響も受けた簡素で深いおもむきのある文化を
東山文化といいます。
 能・水墨画など

【能】猿楽や田楽などの芸能が、舞台芸術に発展したもの。
【観阿弥】1333~84 能の観世座の祖。足利義満の保護を得て、能の興隆の基礎を築いた。
【狂言】能と能の合間に上演される演劇。
【水墨画】墨の濃淡で、自然や人物を描く絵画。
【連歌】歌の上の句と下の句を、別々の人がつくってつないでいく文芸。
【お伽草子】室町時代につくられた、絵入りの短編小説集。

 

①平安時代から神社の祭りなどの時、農民によって行われてきた田楽や猿楽は、
足利義満の保護を受けた
観阿弥と世阿弥によって能として大成されました。

②狂言は能の合間に演じられました。

 

③室町時代、民衆の地位が向上し、民衆が楽しむ文化が生まれました。
「浦島太郎」や「一寸法師」や「ものぐさ太郎」などのお伽草子とよばれる絵本が作られました。

④また、和歌の上の句と下の句を、次々に別の人がよみあう連歌も流行しました。

 

⑤和紙に墨一色の濃淡で描く画を水墨画といいます。
禅僧の雪舟が大成しました。
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