| 鎌倉時代 |
| 源平の内乱 |
![]() ![]() ①源頼朝は鎌倉にいて、弟の源義経らを派遣しました。 義経は源義仲を倒して、一ノ谷の戦いと屋島の戦いで平家を破り、 1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。 ②源頼朝の巨大化を恐れた後白河上皇は、 頼朝と義経が不仲になったことにつけこんで、義経に頼朝追討を命じました。 ③これに対して、頼朝は軍を京都に送って後白河上皇にせまり、 国ごとに守護を置き、荘園や公領ごとに地頭を任命する権利を獲得して、 鎌倉を本拠地にして幕府を開きました。 ④守護は、その国の御家人を統率し重い犯罪の取り締まりに当たりました。 地頭は、年貢の取りたてなどの荘園の管理に当たりました。 ⑤義経は平泉の奥州藤原氏に逃れました。 頼朝は義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏を攻め滅ぼし、 これまで独立性の強かった東北地方も支配下におきました。 ⑥そして、1192年に源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられました。 |
| 鎌倉幕府の成立 |
【鎌倉幕府】源頼朝が鎌倉(神奈川県)にひらいた幕府。 【守護】鎌倉幕府において、軍事や警察の仕事を行った地方官。 【地頭】鎌倉幕府において、年貢の取り立てや土地の管理などを行った地方官。 【征夷大将軍】蝦夷を討つために東北地方に派遣された臨時の指揮官。 平安時代初期の坂上田村麻呂が有名。 ![]() ①1185年、源頼朝は国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭を任命する権利を獲得し、 鎌倉を本拠地にして鎌倉幕府を開きました。 ②守護は、その国の御家人を統率し重い犯罪の取り締まりにあたりました。 ③地頭は、年貢の取りたてなどの荘園の管理にあたりました。 ④1192年、源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられました。 以前は1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことから、鎌倉幕府の成立としていましたが、 現在では守護と地頭の任命権を獲得した1185年を、鎌倉幕府成立の時期とする説が有力になっています。 |
| 鎌倉幕府のしくみ |
【鎌倉幕府】1180年に侍所、1184年に政所・問注所が、1185年には守護・地頭がおかれた。 【執権】鎌倉幕府で、将軍の補佐をする役職。 北条氏が世襲し、頼朝の死後、執権が政治の実権をにぎった。これを執権政治という。 ![]() ①鎌倉幕府の組織: 御家人をまとめ軍事をあつかう侍所、一般政務や財政をあつかう政所、 御家人からの訴えを裁く問注所からなっていました。 ②また、国ごとに守護を荘園や公領ごとに地頭を置きました。 執権は将軍を助けて政治をおこなう最高職ですが、これが設けられたのは源頼朝の死後で、 北条氏がその職を独占して幕府の実権をにぎりました。 |
| 御恩と奉公 |
【御家人】鎌倉時代に、将軍と主従関係をむすんだ武士。 【御恩】鎌倉時代、将軍が御家人に対してあたえた恩恵。 【奉公】御家人が将軍に忠誠を誓い、幕府や朝廷の警護を行い、戦時には戦いに参加すること。 【封建制度】土地を仲立ちとして、主人と従者が御恩と奉公の関係で結ばれる制度。 ![]() ①御恩の中で一番重要なのは、家来となった御家人の土地を保障することでした。 ②源頼朝は御家人に対して、主に地頭に任命することによって、先祖伝来の所領の支配を保証しました。 ③国衙(こくが)や近隣との勢力争いに絶えず悩まされていた武士にとって、 所領の領有を認めてもらうことは、何物にもかえがたい御恩でした。 ④このような御恩に対し、御家人は平時には京都や鎌倉の警護にあたる義務を負い、 戦時には命をかけて鎌倉殿のために戦いました。これが奉公です。 ⑤このような土地を仲立ちにした主従関係を、封建制度と言います。 |
| 武士の生活 |
【もののふの道】鎌倉時代の武士の道徳。 武士は簡素な暮らしをし、つねに流鏑馬・笠懸・犬追物などの武芸の訓練を行うことが重視された。 ![]() ①平安時代、土地を開墾した豪族や有力な農民は、 租税の負担から逃れるために有力貴族や寺社に土地を寄進して荘園としてもらい、 自分は形式上は荘官として田畑を耕作しました。 ②また、彼らは国司から公領の耕作を請け負い、 一定額の年貢をおさめるかわりに、耕作権を認められていました。 豪族や有力農民の中で武装した者は、武士と呼ばれるようになりました。 武士は荘園や公領に堀と塀をめぐらせた館を構えて生活し、 土地の開発を進めて、下人や農民を使って農業を営んでいました。 ③武士は常に馬や弓矢の武芸によって心身を鍛えました。 武芸の訓練方法としては、馬の上から的にした笠を射る笠懸、 馬の上から連続した3つの的を射る流鏑馬、 走る馬の上から犬を射る犬追物などがあります。 |
| 承久の乱 |
【承久の乱】1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとしておこした反乱。 【六波羅探題】鎌倉幕府が京都においた役職。 承久の乱の後、朝廷の監視や西国の御家人の統括などを行うためにおかれた。 ![]() ①1199年に源頼朝が死んで、頼朝の子の源頼家が二代将軍になりましたが、 母親の北条政子の実家である北条氏によって、暗殺されてしまいます。 ②ところが、三代将軍源実朝も暗殺されて、源氏は三代で滅んでしまいました。 その結果、北条氏が他の有力御家人も滅ぼして、執権として実権を握りました。 ![]() ③武士の勢力が全国各地で伸びていくにつれて、朝廷や貴族の反感が強まりました。 ことに公家の経済的基礎である荘園が、地頭によって犯されつつあったことが、 危機感をいっそう増大させました。 ④源氏が三代で滅び、有力な御家人の争いが続きましたが、 こうした幕府の動揺をチャンスとみた後鳥羽上皇は、1221年に執権北条義時追討の命令を出しました。 これが承久の乱です。 ⑤この時代を鎌倉時代と言っていますが、実質的には朝廷と幕府の二大勢力が共存していて、 天皇・上皇の朝廷の精神的な権威は以前として大きかったのです。 ⑥この知らせを聞いた御家人たちは、朝廷方と戦えば朝敵となるのではないかと動揺しました。 しかし、御家人たちは頼朝以前の悲惨な境遇を思い出して、団結して朝廷に刃向かうことを決心したのでした。 ⑦幕府は大軍を率いて上皇方を破り、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。 ⑧この乱後、幕府は京都に六波羅探題という役所を置いて、朝廷を監視するとともに、 上皇方についた貴族や西国の武士の領地を取り上げて、地頭に東国の御家人を任命しました。 これによって、幕府の支配力は西日本にも強く及ぶようになったのです。 |
| 御成敗式目 |
【御成敗式目】1232年、執権北条泰時が定めた鎌倉幕府の51か条の基本法。 ![]() ①承久の乱の後、地頭の勢力が強くなって、荘園への支配権を拡大していったために、 荘園領主との間で争いがさらに激しくなりました。 ②荘園領主は、幕府に訴えて地頭の年貢未納をおさえようとしました。 しかし、現地に根を下ろした地頭の行動を阻止することは難しかったために、 荘園の半分を地頭に分けるなどの妥協が行われました。 ③このような状況に対処し、公平な裁判制度を確立する目的もあって、 1232年に、執権北条泰時は裁判の基準として御成敗式目を作りました。 ④武士の社会で行われていた慣習にもとづいて、 御家人同士や御家人と荘園領主の間の争いを裁く基準を明かにしたものです。 ⑤この条文の中で注目すべき点は、 「武士が20年の間、実際に土地を支配していれば、その権利を認める」ことを定めた条文で、 これによって、武士の土地所有権が法的にも保証されたのです。 |
| 鎌倉時代の文化 |
![]() ![]() ①鎌倉時代にあらわれた仏教は簡単でわかりやすく、 実行しやすかったので、民衆の心をとらえ広がっていきました。 ②第一は、平安時代の浄土信仰の流れをくむ念仏(南無阿弥陀仏)の系統です。 法然は浄土宗を開き、阿弥陀仏にすがり「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽浄土に往生できると説きました。 ③法然の弟子の親鸞は、浄土真宗を開いて悪人正機説を唱えました。 ④一遍は時宗を開き、布教の方法として上右図のような踊り念仏を取り入れて、全国を歩きまわって布教しました。 ⑤第二は、禅宗の系統です。栄西は宋にわたって禅宗を学んで、臨済宗を開きました。 座禅というきびしい修行を通して、自分で悟りを開くことを重視しましたが、 これは武士の気風によく合ったために、武士の間に広がり、幕府の保護を受けました。 ⑥道元は、ただひたすら座禅に徹せよと説いて、山中にこもって曹洞宗を開きました。 ⑦第三は、題目(南無妙法蓮華経)の系統です。 日蓮は日蓮宗を開き、法華経こそ仏教の根本であると説いて、 他宗をきびしく批判しました。 |
| 文化 |
【鎌倉文化】12世紀末~14世紀はじめにかけて栄えた文化。 京都の公家文化をもとに武士の文化と大陸からの禅宗の文化の影響をうけた文化。 ![]() ①鎌倉時代には、武士がはなばなしく活躍し、民衆も力を付けました。 また、貴族を中心にした伝統文化のうえに、武士や民衆の素朴で力強い文化が発達しました。 その上、宋の文化も取り入れられました。 ②この時代の代表的な彫刻は、運慶らの作による金剛力士像です。 写実的で力強いのが特徴です。 ③金剛力士像が置かれている東大寺南大門は、鎌倉時代に再建されました。 現在の7階建ての建物ほどの高さがある大建築で、中国の影響を受けています。 ④平氏の繁栄から没落までをえがいた平家物語は、琵琶法師によって広められました。 ⑤随筆としては、吉田兼好の徒然草や鴨長明の方丈記があります。 また、和歌集としては新古今和歌集があります。 |
| モンゴル帝国 |
【モンゴル帝国】13世紀初め、チンギス・ハンがモンゴル民族を統一してつくった帝国。 【フビライ・ハン】1215~94 チンギス・八ンの孫で、モンゴル帝国5代皇帝。 【元】モンゴル帝国5代皇帝フビライ・八ンが建国した国。 【マルコ・ポーロ】1254~1324 イタリアの商人。 ![]() ①13世紀の初め、チンギス・ハンは、モンゴルを統一してモンゴル帝国を建設しました。 ②5代目のフビライ・ハンは、1271年に、首都を大都(現在の北京)において国号を元と定めました。 さらに、1279年には南宋を滅ぼし中国全土を支配下に置きました。 ③イタリアの商人マルコ・ポーロはフビライに17年間仕え、 帰国後、その体験をもとに「東方見聞録」を著しました。 その中で日本のことを「黄金の国ジパング」として紹介しました。 ![]() |
| 元寇 |
【元寇】1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度にわたり元軍が九州北部を襲った。 ![]() ①元のフビライ・ハンは高麗を征服した後、日本も従うようにと使者を送ってきました。 しかし、幕府の執権北条時宗は、これを拒絶しました。 ②1274年、元軍3万が九州の博多湾に上陸し、集団戦法とすぐれた火器によって幕府を悩ましました。 これを文永の役と呼びます。 ③さらに、1281年に約14万の大軍で来襲しましたが、暴風雨に襲われて退却しました。 これを弘安の役と呼びます。 ④この2度の元の襲来を、元寇と言います。 ![]() ⑤元軍が使った火器は、上図の中央部に○で囲った「てつはう」です。 「てつはう」は、鉄板で火薬をつつんだもので、 点火して爆発させて、爆発音と煙で敵を混乱させるために使ったものと思われます。 ⑥上図では、その大きな音に驚いた馬が前のめりになって、 騎馬武者が馬から落ちそうになっている様子が描かれています。 このような火器とともに日本軍を悩ませたのは、元の兵士の集団戦法でした。 |
| 農業と商業の発達 |
![]() ①鎌倉時代の中頃から牛馬の利用や鉄製の農具の普及しました。 また、草木灰など肥料や二毛作の普及によって農業生産が向上しました。 ②この二毛作は表作としては米を作り、裏作として麦を作るものでしたが、 土地がやせるのをふせぐためには、肥料を与える必要がありました。 ③また、1つの土地を水田として利用した後に、水を落として畑として使い、 翌年ふたたび水を引き込んで水田にしていました。 このため、灌漑用水の整備や田畑の耕作などに手間がかかるようになりました。 ④このような問題は、牛馬の利用と鉄製の農具の普及による農作業の効率化によって、可能になりました。 ⑤また、桑・漆・茶など、原料や商品として売る商品作物の栽培も始まりました。 ただし、綿は朝鮮から綿が伝わって、戦国時代に三河地方から栽培が始まりました。 |
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