社会2年 日本の歴史(平安時代)

 平安
 [要点-平安時代]
 
 年代  おもなできごと
 794年 桓武天皇が都を平安京に移す
 801年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され蝦夷の反乱をおさえる
 9世紀初 最澄が比叡山に延暦寺を建て天台宗を開く
空海が高野山に金剛峯寺を建て真言宗を開く
 894年 中国の国内が乱れ、国力がおとろえたので遣唐使を停止する。
 9世紀後半 藤原氏が摂関政治をはじめる(天皇の幼少時は摂政、成人後は関白)
わが国独自の国風文化が栄える
仮名文字の発明 → 紫式部の源氏物語,清少納言の枕草子,
古今和歌集、寝殿造、大和絵
 935年 関東で平将門が反乱を起こす
 939年 瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こす
 11世紀前半 藤原道長・藤原頼通親子のとき:摂関政治の最盛期
藤原頼通は、浄土信仰の影響を受けた平等院鳳凰堂を宇治に建てた
 1086年 白河上皇が院政をはじめる
 1156年 保元の乱がおこる
 1159年 平治の乱がおこる(平氏と源氏の争い → 平清盛が勝利)
 1167年 平清盛が太政大臣となる,兵庫の港を整備して中国の宋と貿易

①8世紀後半、朝廷内の争いや僧の政治への口出しが多くなった。
桓武天皇は794年に平安京に都を移して政治の改革に着手した。
桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷の反乱を鎮圧させた。
また、奈良仏教に対抗させるために、真言宗の開祖である空海と天台宗の開祖である最澄を保護した。

②9世紀に唐の勢力は急速に衰えた。
894年に遣唐使に任命された菅原道真は、唐のおとろえと往復の危険を理由に遣唐使の停止を訴えて認められ、
これ以降遣唐使は派遣されなかった。
唐は10世紀のはじめにほろび、小国の分立を経て宋が中国を統一した。
同じころ朝鮮半島には高麗がおこった。
これらの国との公式な交流はなかったが、商人たちが日本に文物をもたらした。
 桓武天皇-平安京遷都

【平安時代】794年、桓武天皇によって京都に都が移されてから、鎌倉幕府が成立するまでの約400年の間。
【平安京】794年、桓武天皇によって京都につくられた都。
【桓武天皇】737-806 奈良・平安時代の天皇。

 

①遷都の背景と理由:
桓武天皇は、腐敗した平城京の宗教を改めることと、天皇の力を示すために、
784年に長岡京に遷都しました。
しかし、長岡京遷都の責任者であった藤原種継が暗殺されると、
794年に平安京へもう一度遷都しました。

②遷都の理由:
平城京の仏教腐敗: 平城京の仏教勢力は政治と癒着して腐敗していました。
天皇の血統変化: 天武系から天智系への血統の変化がありました。
不便な地理: 平城京は大きな川がなく、不便でした。

③下記の図で
平安京は、現在の京都市で、琵琶湖の南端の西側のウの位置。
アは難波京、イは平城京。

 

④下記の図で
Aは奈良時代に聖武天皇が建てた東大寺や、鑑真が建てた唐招提寺があるので平城京。
Bは平安京。

 
 蝦夷

【蝦夷】古代から東北地方に住んでいた人々。
【坂上田村麻呂】758~811 征夷大将軍に任命され、蝦夷を平定するため東北地方に派遣された人物。

 

①奈良時代のころは、律令国家の支配が及んだのは関東地方まででした。

②東北地方に住む人々は、朝廷から異種の文化をもつ異民族あつかいされ、蝦夷とよばれました。
また、九州南部に住む人々も異民族あつかいにされ、隼人とよばれました。 

③朝廷はしだいに東北地方への支配を拡大していきましたが、
これに対し蝦夷の人々は、アテルイを指導者として激しく抵抗を行いました。

④桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、
4万の大軍を送ってアテルイの軍を降伏させ、支配を拡大しました。
 空海と最澄

【天台宗】9世紀はじめ、遣唐使とともに唐に渡った最澄(伝教大師)によって伝えられた仏教の宗派。
【真言宗】9世紀のはじめ、遣唐使とともに唐に渡った空海(弘法大師)によって伝えられた仏教の宗派。

 

①奈良時代に仏教が政治と結びついて腐敗したため、
桓武天皇は僧侶の資格を厳しくするなどして、改めようとしました。

②これに応じて仏教界にも改革の動きがおこりました。
最澄と空海は、教典の研究を中心とする奈良仏教にあきたらず、
仏教の本来のあり方を求めて修行を重ね、遣唐使にしたがって唐に渡りました。

③帰国後、最澄は比叡山に延暦寺を建てて天台宗を、
空海は高野山に金剛峯寺(金剛峰寺)を建てて、真言宗を広めました。
 [要点-摂関政治]
 
①9世紀中ごろから藤原氏が勢力を伸ばし、娘を天皇の妃(きさき)にして、
孫である皇子を天皇にたてた。
天皇が幼少のときは摂政として、成人してからは関白として政治の実権を握った。
これを摂関政治という。

②11世紀の藤原道長・藤原頼通親子のときがその最盛期であった。
藤原頼通は、浄土信仰の影響を受けた平等院鳳凰堂を宇治に建てた。
 摂関政治

【摂関政治】10世紀後半~11世紀に、藤原氏が摂政・関白の地位を独占して行った政治。
【藤原道長】966~1027 平安時代の貴族。1016年に摂政、翌年には太政大臣に任命された。
【藤原頼道】藤原道長の長男で、道長のあとをついで3代の天皇の摂政・関白をつとめ、約50年間政治の実権をにぎった。
【浄土真宗】10世紀以降に広まった、極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰。

 

【摂関政治】
10世紀後半から11世紀にかけて行われた政治スタイルで、
藤原氏が摂政(天皇の幼少時に政治を補佐する役職)と
関白(成人した天皇に政治を補佐する役職)の役職を独占し、政治を支配しました。

①この時期、藤原道長と藤原頼通親子が最盛期を築きました。
藤原道長は4人の娘を天皇に嫁がせ、その娘が産んだ天皇の外祖父として強大な権力を握りました。

②摂関政治は、天皇の補佐役を飛び越えて、
藤原氏が自分たちの思い通りに天皇を動かす政治体制であり、
当時の政治は「摂関政治」とも呼ばれました。

③他の貴族をしりぞけて勢力を伸ばした藤原氏は、自分の娘を天皇の妃(きさき)とし、
生まれた皇子を小さいうちから天皇に立て、天皇の外戚(母方の親戚)として勢力をふるいました。

④天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白の職につき、政治の実権を握りました。
これを摂関(せっかん)政治といいます。

⑤藤原氏は11世紀の頃の藤原道長とその子藤原頼通の時代に全盛期を迎えました。

⑥その子頼通は3天皇50年間にわたって摂政・関白をつとめました。

⑦頼通は浄土信仰の影響を受けて、宇治に平等院鳳凰堂をつくりました。

 

⑧平安時代のはじめ(9世紀前半)、桓武天皇などの時代は天皇が強い権力を持っていました。

⑨しかし、9世紀の中ごろ~後半に、資料にある藤原良房は臣下で初めて摂政となり、
藤原基経は関白になりました。

⑩その後、常に摂政・関白がおかれるようになり、藤原氏の摂関政治が行われました。

⑪摂関政治の絶頂期は、藤原道長(1016年に摂政になる)とその子頼通が権勢を誇りました。

 

⑫大化の改新~奈良時代~平安時代と、藤原氏は他の貴族をしりぞけて次第に権力を握っていきましたが、
その秘訣は、自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることでした。
藤原氏の全盛時代を築いた藤原道長は4人の娘を次々に皇后や皇太子妃として、
30年にわたって朝廷内で大きな権勢をふるいました。

⑬幼くして即位した場合、道長がその後見役(摂政)になるのは自然の成り行きです。
道長は娘の一人を天皇の妃(きさき)とすることに成功したとき、
「この世をばわが世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば」という歌で表している。

⑭さらに、藤原道長の子である頼通は、3天皇50年間にわたって摂政・関白を務めました。
 荘園の発達

【荘園】貴族や寺社の私有地。743年に墾田永年私財法が制定されてから各地に広がった。
【墾田永年私財法】三世一身法にかわって743年に出された。
新しく開墾した土地(墾田)は、永久に自分の土地にしてよいとした法令。
【不輸・不入の権】荘園に認められた特権。
【寄進】神社・寺院などに、金銭・物品を寄付すること。

 

①荘園は、寺社や貴族が財力によって開墾(土地を切り拓き田畑を作ること)し、
自分の領地とした大規模な農園を指します。
奈良時代(8世紀)に人口が急激に増加したことを受け、
朝廷は食糧を確保するために田畑の開拓を奨励する法律「墾田永年私財法」を発布しました。
これが荘園誕生の引き金となりました。

②平安時代に入ると、開墾した土地の所有者はより強い力を持つ貴族に寄進(寄付)するようになり、
荘園はさらに拡大していきました。
荘園は、中世を通じて存続し、戦国時代にようやく廃止されました。

③荘園が発生したのは、奈良時代に墾田永年私財法(743年)が出された後です。
貴族や寺院は浮浪農民を使って荒れ地を開墾し、荘園という私有地を獲得していきました。

④このような初期の荘園は私有地ですが、租税を納める義務は負っていました。

⑤しかし、やがて藤原氏などの貴族や有力寺院はその権威を悪用して、
自分の荘園を「これは田ではなく、自分の邸宅の庭(荘園)である」という理屈をつけて、
租税がかからないようにしていきました。

⑥10世紀後半になると、地方の豪族や有力農民の中には荒れ地を開墾して私有地を広げる者が出てきました。

⑦彼らは土地にかかる租税を逃れるために、土地を藤原氏などの有力貴族や大きな寺院に寄進して税の免除を受け、
自分は名目上荘官になって、有力貴族等に(税よりは少ない)年貢を納めるようになりました。

⑧税を国に納めなくてよい権利を不輸の権といいます。

⑨そして、国司の使者の立ち入りを拒む不入の権をも獲得しました。

⑩このようにして、藤原氏へ寄進される荘園が増加し、
そこから上がってくる年貢によって華やかな生活を送りました。
藤原氏繁栄の経済的基礎は荘園という私有地でした。
 税制
 
①班田収授法:
豪族による土地と人民の支配を排除し、国家が直接民衆を管理するために制定されました。
民衆は戸(こ)という単位で管理され、
戸籍(こせき)と計帳(けいちょう)に基づいて農地(口分田)が与えられました。
口分田は男性が2段(約2,400m2)、女性はその3分の2の面積でした。
与えられた口分田から収穫の約3%を租(そ)と呼ばれる税として朝廷に納める義務が課されました。

②租庸調:
班田収授法に基づく税制で、以下の3つの税をまとめて指します。
租: 田んぼから収穫したお米の約3%を納める税。
庸: 布を納める税。
調: 地方の特産物を納める税。
 武士の発生

【武士】もともとは朝廷に武芸をもって仕えた武官のこと。
【棟梁】武士の一族を率いる人物。源氏や平氏の大将など。

 

武士の発生については、複数の説があります。
【在地領主論】
地方の有力な農民である開発領主が武力を蓄え、
自衛のために武装したことから武士が始まったとする説です。
彼らは農地争いに参戦し、武士団を形成しました。

【中央政府からの流入説】
中央政府で重要なポストに就けなかった中~下級の武官や貴族の子孫たちが地方に渡り、
武士となったという考え方もあります。
彼らは土地を奪い合う過程で地方の有力な勢力と結びつき、武士団を形成しました。

①摂関政治では、地方の政治は国司まかせで、本来なすべき国司への監督も怠っていた。
国司は4年の任期中に私腹を肥やすことには熱心であったが、
治安の維持などの本来の職務を怠ることが多かった。

②このころ、荒れ地を開墾して荘園という私有地を広げるなどして、有力農民や豪族が成長していった。

③国司が暴政を行い政治が乱れてくると、土地所有権をめぐって国司と豪族・有力農民、
豪族・有力農民どうしの争いがおこり、また、盗賊の横行など治安の乱れもひどくなってきた。

④こうした状況の中で、豪族や有力な農民は土地を守るために弓矢や刀で武装するようになり、
国司の税の取り立てに対抗したり、互いに土地をめぐって争ったりするようになった。

⑤当時の武士の考え方を表す言葉として、「一所懸命(いっしょけんめい)」というのがある。
「一所」(一つの場所=自分の土地)に「命を懸(か)ける」という意味である。
当時の武士(地方豪族や農民の中で武装した者)にとって、最も大切なものは土地であった。
土地を奪われてしまえば、本人だけでなく家族も死ぬ以外になかったからである。

⑥武士は地方では実力を持っていても、貴族からは低く扱われていた。
そこで、天皇の子孫で源・平の姓もつ貴族や、藤原氏の一族が国司として地方に来ると、
その家来になったり、彼らと婚姻関係を結んだりして、生まれた子に源氏や平氏などの一族だと名のらせた。

⑦このようにして源氏・平氏などの武士団が生まれ、そのリーダーは棟梁とよばれた。
 武士の反乱

【平将門の乱】935年、下総の豪族平将門が一族内で争いをおこし、その後939年に関東地方でおこした乱。
【藤原純友の乱】939年、伊予の国司であった藤原純友が、瀬戸内海で海賊を率いておこした乱。
【前九年の役】1051~62 東北地方でおこった戦い。
【後三年の役】1083~87 東北地方でおこった戦い。

 

①10世紀の半ば、東西で武士の反乱がおこりました。
関東では、935年に平将門が国の役所を襲い、自ら新皇(新しい天皇)と名のり、
一時期、関東地方の大半を支配しました。

②また、瀬戸内では藤原純友が海賊を率いて、国の役所や太宰府をおそいました。

③朝廷は、武士の力をかりて、この2つの反乱をようやくしずめることができました。
東北では蝦夷の子孫である阿倍氏や清原氏が力をのばしていましたが、
11世紀の後半に、かれらの勢力争いで前九年・後三年の役がおこりました。

④朝廷から派遣された源義家が、関東の武士を率いてこれをしずめたので、
源氏の武士団は東日本で大きな勢力となっていきました。

⑤後三年の役以降、陸奥・出羽地方を支配したのは奥州藤原氏でありました。
奥州藤原氏は平泉を根拠地として栄え、浄土信仰の影響を受けた中尊寺金色堂を建てました。
 遣唐使の廃止

【菅原道真】845-903 平安時代前半の学者、右大臣。
894年、遣唐使に任じられたが、遣唐使の停止を進言し認められた。

  

①遣唐使は、日本から唐(現在の中国)に派遣された使節団で、
7世紀から9世紀にかけて続いた外交活動です。
遣唐使は、文化や技術の交流を目的として、唐との国際的な関係を築りました。

②しかし、894年に遣唐使は停止されました。
その理由は、唐の国力が衰え、遣唐使を派遣する意味が薄れたためです。

③奈良時代には遣唐使が多く派遣され、唐の文化や技術を積極的に取り入れました。
しかし、唐の政治的混乱や経済的問題が次第に顕在化し、遣唐使の意義が低下しました。

④特に、唐の滅亡が近づいた9世紀に、遣唐使は停止されました。

 [要点-文化の国風化]
 
①平安時代半ばには文化の日本化が進みましだ。
これを国風文化という。

②貴族の住居は自然を取り入れた寝殿造となり、絵画では大和絵が描かれた。

③また、仮名文字の発明によって文学が発達した。
紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子、紀貫之らが編集した古今和歌集が代表的作品です。

 国風文化

【国風文化】10世紀~11世紀にかけて、平安時代半ばに栄えた文化。
【絵巻物】平安時代から鎌倉時代にかけて、大和絵と文章をおりまぜてつくられた巻物。
【かな文字】平安時代に発達した文字。漢字をもとにつくられた。

 

①国風文化とは?:
平安時代中期を中心に栄えた、日本独自の発展を遂げた文化です。
遣唐使の廃止が背景にありました。
遣唐使は中国との交易を行うために派遣されていた施設でしたが、
中国の政治不安定により廃止されました。

②文学:
かな文字の発達により、日本語で細やかな内容を表現できるようになりました。
代表的な文学作品には、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」があります。

③和歌:
勅撰和歌集が作られ、日本の文学が発展しました。
最初の勅撰和歌集は古今和歌集で、紀貫之も関与しています。

④服装:
平安貴族は束帯と垂纓冠を着用していました。
女性は十二単という重ね着でオシャレを楽しんでいました。

⑤美術:
大和絵と蒔絵による美術が発展しました。
文学と絵画を組み合わせた絵巻物も国風文化を形成しました。
 浄土信仰

【浄土真宗】10世紀以降に広まった、極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰。
【平等院鳳凰堂】藤原頼通が宇治(京都)に建てた阿弥陀堂。
【中尊寺金色堂】岩手県平泉の中尊寺に、藤原清衡が建立した阿弥陀堂。

  

①平安時代中ごろ、盗賊の横行など社会が乱れ、
地震・火災・日照り・洪水などの災害も多く起こりました。

②このころ、シャカの死後2000年から末法の世になるという末法思想が広まり、
阿弥陀仏にすがって極楽浄土に生まれ変わろうという浄土信仰が、
不安をつのらせた貴族や庶民の心をとらえました。

③藤原頼通は、この世に極楽浄土のようすを表そうとして、
宇治に寝殿造の平等院鳳凰堂(上図)を建てました。
 文化

 

①Aの法隆寺は、飛鳥時代に聖徳太子によって建てられたものです。

②Bの平等院鳳凰堂は、平安時代に浄土信仰の影響を受けた藤原頼通によって建てられたものです。

③Cの琵琶は、奈良時代の東大寺の正倉院におさめられています。
 [要点-武士の登場・院政・平清盛]

【武士】もともとは朝廷に武芸をもって仕えた武官のこと。
【承平・天慶の乱】10世紀前半におきた平将門の乱と藤原純友の乱を合わせたよび方。
【奥州藤原氏】平安時代末期から平泉(岩手県)を拠点として奥羽地方で勢力をもった一族。
【白河天皇】IO53~1129年 院政を始めた天皇。
【院政】天皇が位をゆずって上皇となったのちも実権をにぎり続ける政治形態。
【平清盛】1118~81 平安時代末期の武士。平治の乱で源氏をやぶってから勢力を拡大した。

①中央の武官と地方の豪族との、婚姻や主従関係を結ぶなどの交流の中から武士がおこり、
源氏や平氏などの武士団が生まれました。

②10世紀の中ごろ、関東では平将門が乱を起こし、瀬戸内では藤原純友が乱を起こしました。

③東北地方では、奥州藤原氏が勢力を伸ばし、浄土信仰の影響を受けて平泉に中尊寺金色堂)をつくりました。

④白河天皇は、位を皇子に譲ってからも上皇として政治の実権を握りました。
これが院政の始まりです。

⑤1156年に保元の乱、1159年に平治の乱が起こりました。

⑥これに勝利した平清盛は、1167年に太政大臣となって政治の実権を握りました。

⑦平清盛は、兵庫の港を整備して中国の宋との間の貿易を積極的に行いました。
 院政

【院政】天皇が位をゆずって上皇となったのちも実権をにぎり続ける政治形態。
平安時代末期から鎌倉時代の武家政治が始まるまでの間に見られた政治体制です。

 

①院政とは?:
院政は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、
天皇の代わりに政治を行う体制のことを指します。
具体的には、天皇が位を譲ると上皇となり、上皇が出家(僧になること)すると法皇となります。
上皇は「院」とも呼ばれ、政治を行うことを院政といいます。
この制度は1086年に白河天皇が位を譲って白河上皇となったことから始まりました。

②特徴と変遷:
摂関政治が衰えた後、後三条天皇による親政が行われた後、院政が始まりました。
院政は、天皇の父方(天皇の父や祖父)が実権を握る政治であり、
白河上皇の御代以降約100年間続きました。
白河上皇は新しい荘園を認め、多くの荘園が集まりました。
また、寺社勢力も荘園の寄進を受け、特に延暦寺や興福寺が広大な荘園を持っていました。
この時期には、院が政治の舞台となり、朝廷との対立も生じました。
 平氏政権

【平清盛】1118~81 平安時代末期の武士。平治の乱で源氏をやぶってから勢力を拡大した。
【日宋貿易】日本と宋との民間貿易。
【保元の乱】1156年、朝廷での権力をめぐっておこった内乱。
【平治の乱】1159年、保元の乱の後、平氏と源氏の対立、貴族間の対立でおこった内乱。

 

①白河上皇のあとも約100年間、院政が続きました。
1156年、上皇と天皇があとつぎをめぐって対立して保元の乱が起こりました。

②このときに活躍した平清盛と源義朝は、その後対立を深め、1159年、義朝が清盛に敗れ、
義朝の子頼朝は伊豆に流されました。
これを平治の乱といいます。

③戦いに勝った平清盛は、1167年、武士としてはじめて太政大臣となり政治の実権をにぎりました。

 

④平清盛は、兵庫の港(大輪田泊)を整備して、中国の宋との貿易を行いました。

⑤清盛は娘を天皇の妃(きさき)とし、一族で高い官職を独占し、多くの公領や荘園を支配しました。

⑥そのやり方は貴族と変わらないものであったため、貴族や寺社の反感を買い、
地方の武士の中にも不満を持つ者が増えました。
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