社会2年 日本の歴史(奈良時代)

 奈良
 [要点-奈良時代]
 
 年代  おもなできごと
 701年  大宝律令が制定される
 708年  和同開珎という銅銭が作られる
 710年  平城京遷都:唐の長安を手本にした都、794年までを奈良時代という
 ・中央に二官八省、地方には国司と郡司、九州には太宰府
 ・班田収授法:6歳以上の人々に口分田が与えられ、死ねば国に返させる
 ・税や兵役:租(稲)・庸(布など)・調(特産物)・雑徭・防人・出挙
 743年  墾田永年私財法→公地公民の否定、荘園の始まり

①701年の大宝律令によって、律令国家の仕組みが整い、710年には奈良に都が移された。
唐の都長安にならってつくられたこの都を平城京という。
中央には二官八省の役所が置かれ、国ごとに国司が置かれた。
九州には太宰府が設置された。

②6年ごとに作られる戸籍にもとづいて、6歳以上の男女に口分田を分け与え、死ねば返させる班田収授法が定められた。
その一方で租(収穫した稲の3%)、庸(成年男子に布で納めさせた)、調(地方の特産物)、
雑徭(国司のもとで年間60日以内の労働を行う)などの重い税を課し、高利で稲を強制的に貸し付ける出挙も行われた。
また九州の防備のための防人という兵役もあった。

③重い税にたえかねて口分田をすてて逃亡する農民が増えて田は荒れ、人口増加もあって口分田が不足するようになった。
これに対処するため、743年墾田永年私財法を出して、土地をあらたに開墾した場合は永久に私有を認めることとした。
その結果、貴族や寺社などが、逃亡してきた農民などを使って開墾を進めた。
これが荘園の始まりである。
 律令国家の成立-大宝律令

【大宝律令】701年に唐の律令にならって制定された法律。
【律令国家】律令にもとづいて運営される国家。
【天武天皇】631?~686天智天皇の弟。
【持統天皇】645-702 天智天皇の娘で、天武天皇の后。

 

①律令とは?:
「律令」とは、「律」と「令」を合わせた言葉で、
刑罰についての法令(「律」)と政治の仕組みを定めた憲法や行政法(「令」)を指します。
日本は唐(中国)の律令制度を参考にしましたが、日本独自の制度を整備しました。

②大宝律令の制定:
時期: 西暦701年(大宝元年)
起草者: 刑部親王と藤原不比等
藤原不比等は中臣鎌足の子で、法典の編さんに明るい人物でした。
後に養老律令を編さんするなど、法令整備に貢献しました。

③律令体制下の政治機構:
中央官制:
二官(神祇官と太政官)と八省(8つの省)がありました。
太政官には左大臣・右大臣・大納言・少納言が置かれていました。
地方官制:
国(66カ国)が基本単位で、国司が派遣されました。
郡と里に分かれ、地方行政が整備されました。
 律令による役所のしくみ

【二官八省】律令制のもとで中央におかれた役所。
【国司】律令制のもとで国ごとにおかれた地方の役人。
【太宰府】西国を統括し、大陸からの防衛にあたった役所。
【多賀城】律令制のもとでの、東北地方の政治や軍事の拠点。

 

①大宝律令で定められた統治組織は、
中央に神々の祭りの儀式をつかさどる神祇官と、一般政務をつかさどる太政官の二官があり、
太政官のもとには八つの省がおかれました。

②地方は66の国に分けられ、中央の貴族が国司として派遣された。
国はさらに郡に分けられ、地方の豪族から選ばれた郡司に治めさせた。
さらに、九州には九州地方の政治のほかに、外交や防衛にあたる太宰府がおかれました。

③現在の宮城県には、東北地方の政治や軍事を担当する多賀城が設置されました。
 平城京

【平城京】710~784年の間の都。
日本の奈良時代に建設された都市で、710年に藤原京から遷都されました。

 

①遷都の背景:
元明天皇が、律令制に基づいた政治の中心地として、
それまでの都であった藤原京から遷都し、新しい大規模な都を築きました。
平城京のモデルとなったのは、当時最も文化的に進んでいた唐(中国)の長安でした。

②都市計画:
平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸にして右京と左京に分かれています。
東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、
右京一坊から四坊の大通りが設置されています。
京域は東西約4.3キロメートル、南北約4.7キロメートルに及び、全体が72坊に区画設定されていました。

③文化と歴史:
平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれ、
律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。
 和同開珎

【富本銭】7世紀後半、天武天皇のころにつくられた貨幣。

 

①わが国最古の貨幣は富本銭。
また、武蔵国から銅が産出されたのを記念して、708年に和同開珎が作られました。

②平城京には東西に市が置かれ、さまざまな品物が取り引きされたが、
和同開珎はそのときに使用されたと考えられます。

③しかし、一般には稲や布などの物品による取引が行われていたために、
平城京やその付近以外では流通しませんでした。
 班田収授法と税制-班田収授法

【班田収授法】律令制のもとで、中国の均田制にならってつくられた土地制度。
【戸籍】律令制のもとで、氏姓を確認し、班田収授を行うためにつくられた基本台帳。

 

①班田収授法:
日本の律令制において施行された国家の農地(班田)の耕作権の支給・収容に関する法体系を指します。
この制度は飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われました。

②目的と背景:
班田収授法は、豪族による土地・人民の支配を排除し、国家が直接民衆を掌握するために制定されました。
民衆は家族を中心とした「戸」という単位で管理され、戸籍と計帳を用いて農地(口分田)が与えられました。

③仕組み:
戸籍と計帳に基づいて、国家から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給されました。
死亡者の田は国家へ収公されました。

④税金と収穫:
班田を受けた者は収穫物の中から「田租」と呼ばれる税金を国に納めました。
残りは自らの食料として使用しました。
 税制・兵役
 
【租】田(口分田)の面積に対して課せられた税。
【庸】21歳以上の男子に課せられた10日間の労役。
【調】絹や糸、鉄、海産物など地方の特産物を納めさせた。
【雑徭】国司のもとで年間60日以内の労働が課せられた。
【出挙】春に稲を農民に貸し付け、秋に利息を取って回収する税の一種。
【兵役】律令制のもとで、兵士になって、軍に所属してはたらく義務。
【防人】律令制のもとで、九州北部の沿岸の防衛にあたった兵士。

 

①農民は班田収授法によって、男子は2段(約2300m2)、女子にはその3分の2の口分田が貸し与えられたが、
その反面で、租・庸・調・雑徭などの重い税負担が課せられました。

②租は口分田にかかる税で、1段あたり2束2把(収穫高の約3%)を納める比較的に軽いものでした。

③しかし、成年男子にかかる庸(労役のかわりに布(麻布)を納める)、調(地方の特産物などを納める)は、
農民自身の手で都に運ばねばならず、行き帰りの食料などすべて農民自身の自己負担であったため、
限度をこえた重すぎる負担でした。

④また、雑徭は成年男子に課せられ、国司の命令で年間最大で60日の労役を提供するものでした。
さらに、成年男子3~4人に1人の割合で兵士が徴発されました。

⑤兵士は諸国におかれた軍団で訓練を受け、一部は都へ送られて衛士となり、
一部は九州北部を守る防人となりました。
兵士は武装や食料などを自分で負担しなければならなかったから、その負担は非常に重く、
また、兵士を出すことはその家にとっても働き手をとられることになり、大きな負担でした。

⑥このような重い税負担と働き手を労役や兵役にとられてしまうため、
春から夏には種もみや食べる米がなくなってしまう人々も多かった。
彼らは国司や豪族から稲を借りてしのいだが、秋には高い利息(5割という高利)をつけて返さなければなりませんでした。
これを出挙といい、のちには強制的に貸し付けられるようになり、人々には税と同じものでした。

 

⑦班田収授法と租・庸・調・雑徭などの税制は、唐の制度をモデルにして作られたものですが、
農民にとっては限度を超えた重すぎる負担でした。

⑧租は収穫高の約3%と比較的軽かったが、男子にかかる庸や調をあわせた税負担はかなり重いものでした。
庸や調は農民たち自身の手で都に運ばなければならず、雑徭といって国司のもとで年間60日の労役を課せられました。

⑨さらに、成年男子3~4人に1人の割合で兵役の義務がありました。
農民にとって、これらの負担はきわめて重く、農作業に必要な時間まで奪われてしまいました。
天候の不順や害虫などのために飢饉が起こりやすく、わずかなことで生計が成り立たなくなることも多かった。

⑩山上憶良の貧窮問答歌(万葉集に収録されている)は、
農民の苦しい生活を貴族である憶良が代わって詠んだものです。
 墾田永年私財法
 
【三世一身法】723年に出された、新しく用水をつくって開墾した土地は、3世代にわたり私有を認めるとした法令。
【墾田永年私財法】三世一身法にかわって743年に出された。
新しく開墾した土地(墾田)は、永久に自分の土地にしてよいとした法令。

 

①墾田永年私財法:
奈良時代の743年に聖武天皇によって発布された法律です。
この法律により、自分で新しく開墾した田地(墾田)を永久に私有できることが認められました。

②公地公民制の崩壊: これにより、貴族や豪族たちは荘園を作り、荘園制が誕生しました。

③永年私財化: 墾田を三世一身法(養老7年格)に基づいて収公する必要がなくなり、
永久に私有できるようになりました。

④制限と条件:位階による土地面積の上限が定められました。
国司の許可を必要とし、許可後3年以内に開墾を完了させる必要がありました。
この法律は、日本の班田制に質的な転換をもたらし、荘園制の基礎となりました。
 [要点-天平文化]

【飛鳥文化】7世紀前半、飛鳥地方を中心に栄えた仏教文化。
【天平文化】聖武天皇のころに最も栄えた奈良時代の文化。
奈良時代に栄えた文化で、聖武天皇の治世(8世紀初めから8世紀末)に最も栄えました。

①国際色豊かな文化:
天平文化は、当時の世界の中心であった唐(中国)から多くの影響を受けました。
唐は世界最大の都市であり、世界中から人々や文化が集まっていました。
日本も遣唐使を通じて唐の文化や制度を学び、吸収しました。
正倉院には唐や朝鮮半島、インド、ヘレニズム文化の宝物が収められており、
国際的な色合いが濃い文化と言えます。

②国家的な仏教プロジェクト:
天平文化の時期には中央集権化が進み、朝廷の保護によって仏教が発展しました。
国内では災害や疫病が広まり、不安が広がっていました。
聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図ろうと考え、鎮護国家思想を軸にした国づくりを進めました。
東大寺や盧舎那仏(奈良の大仏)などが象徴的な存在となりました。

③服装の規定が細かい:
貴族は絹の衣服を着用し、鼻高沓(はなたかぐつ)と呼ばれる靴を履きました。
男女ともに唐の影響を受けたスタイルで、着物のあわせ方も唐風に変わりました。
 天平文化-遣唐使と正倉院
 
【遣唐使】唐に派遣された外交使節。
【正倉院】東大寺の宝物庫。聖武天皇の遺品や大仏開眼供養の仏具などが納められている。

 

①奈良時代には、仏教と唐の文化の影響を受けた国際的な文化が栄えました。
この文化は聖武天皇の天平年間にもっとも栄えたので、天平文化と呼ばれています。

②遣唐使は630年から、894年に菅原道真の建議によって廃止されるまでの約260年間に10数回派遣され、
唐の文化や制度を取り入れました。

③東大寺の正倉院には、聖武天皇の身のまわりの品や工芸品が納められています。
上のガラス製の容器、五絃琵琶は西アジアやインドからシルクロードを通って唐に運ばれ、
それを遣唐使が持ち帰ったものです。

④こうしたことから、正倉院は「シルクロードの終着駅」ともいわれる。
正倉院は三角材をつみあげた校倉造で、高床式の構造になっています。
 鑑真など
 
【鑑真】688-763 唐から来日した僧侶。

 

①唐の僧である鑑真は仏教の戒律を日本へ伝えるため、日本に渡ろうとしていくども遭難し、
盲目になりながらも6度目に日本への渡航に成功し、のちに唐招提寺を開きました。

②阿倍仲麻呂は留学生として唐に渡り、唐の政府に仕えて唐で一生を終えた人物です。
 仏教
 
 

①奈良時代の8世紀の中ごろ、農民は重税や伝染病に苦しみ、
皇族や貴族の間では争いが激しくなりました。
当時、仏教は国家を守り、政治を安定させる力を持つと考えられていました。

②聖武天皇は、仏教を盛んにすることによって、社会や政治の混乱を乗り越えようとしました。

③そこで、国ごとに国分寺と国分尼寺、都には東大寺を建て大仏をつくりました。
 歴史書・和歌集

【万葉集】770年ごろ成立した、わが国最古の和歌集。全20卷。
【風土記】713年、元明天皇の命でつくられた地理書。
【日本書紀】720年にできた歴史書全30巻。
【古事記】712年にできた歴史書 全3巻。

 

①天皇中心の中央集権国家ができあがったのは、672年の壬申の乱に勝利をおさめた天武天皇の時代でした。

②国家のしくみが整ってくると、日本の国の起源や天皇が国を治める正当性を明示するために、
歴史書の編さんが行われました。

③天武天皇の時代に始められた歴史書の編さん事業は奈良時代に完成し、日本書紀と古事記が作られました。

④国ごとには、地理や産物、言い伝えなどをまとめた風土記が作られました。

⑤また、天皇・貴族や農民などの和歌4500首ほどを集めた万葉集が作られました。
万葉集では、漢字の音で日本語を表す万葉仮名が使われています。
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